なぜ体系的な文章が書けないのか、言語の正しさについて

なぜ体系的な文章が不可能なのか。

僕にとって、書くことは即興演奏のようなものだ。長大な曲の作曲が不可能なように、僕には体系的な文章を書くことができない。
体系的な文章というのは、計画なしには書けない。目次を先に作り、事前に決めた大まかな内容のイメージにしたがって文章を書くわけだ。
つまり、その文章を書いているその日の身体、精神の状況は無視されることになる。目の前の状況から離れ、意図的にイメージを思い出さなければならない。この意図、が決定的にまずい。
この意図、というのは世界からある特定の結論が導き出されることを期待しながら、世界を見るということだ。ある結論のために自分の視界を方向づけることだ。
体系的な統一性がもつある種の説得力、に魅せられて人はとてつもない視野狭窄に陥る。

言語の正しさについて
ところで、彼らはパースペクティブの複数性についてどのように考えているのだろうか。
すべて、言語であらわされるものというのは、揺らぎうる。これは、論理的な帰結というより、経験である。諸々の強度があり、特定の言葉にとどまる時間の長短があるだけである。
言語が世界を「正しく」表現するなんてことがあるだろうか?あらゆる言語は特定の習慣、状況のなかで意味を持つに過ぎない。
というより、もっと単純に言えば、あらゆるものに名札がついていれば、言語が「正しい」かどうか判断ができるが、ついてない。世界の側にはなにも言語的なものがないのに、ある言葉が「正しい」ということを窮極においていかに判断するのだろうか。
我々特有の、世界の分節化があり、我々にとっての実用性があるだけではないのか?

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