日記 #39 2020.06.16 「若おかみは小学生!」

昨日、カクヤスを頼みまして即ち冷蔵庫が酒でパンパンである。酒でパンパン! ♪水じゃなくてウオッカ〜。ノエルくんはウォッカじゃなくてウオ↑ッカなんですね。あるいはウオトカなのかもしれない(突然ですがサンホラの話をしています。

はい、というわけで仕事終わりと同時にビール的な飲料を1缶空けてからスーパーに行くのが常態化している昨今であります。昨日と今日はカレーを煮込んで食べたので夜食べるものにあまり悩まなくて済みました。とはいえ栄養は偏るので適当に野菜など食べております。野菜はね! おいしいから食べるの!(と言いながらカメラを殴る。

で、結構ですね、酔っていてというかもはや眠い。正直寝たい。しかしながらですね、この日記というやつ、なんかふと途切れてしまうと「まぁよかんべ」とか言ってそのままずるずるいっちゃいそうなので気持ちを奮い立たせております。日記に。

それで今日はですね、昨日見たアニメの話をしようと思っていた。「若おかみは小学生!」ていうアニメ映画を見ました。昨日。その感想をダラダラ書こうと思いますが、何を書こうとか具体的なことは例によって決まっておらず、本当にダラダラ書くことになりそうです。なおネタバレも多分にあるので未見の方やネタバレを心底憎んでいる方はご注意ください。実は幽霊だったブルース・ウィリス「アイム・ユア・ファーザー(訳:犯人はヤス」(と言いながらサムアップで溶鉱炉に沈んでいく。


で、見たんですよ「若おかみは小学生!」を。


言うてタイトルくらいは知ってたんですよね、なんか変な流行り方しましたでしょうツイッターで。ツイッター、たまに一般にはそうそう膾炙しなそうな映画やらなんかネットメディアのオリジナルコンテンツみたいのがバーッと流行るのありますよね。そういうやつの一つという認識であった。「すみっコぐらし」の映画版みたいな。あとバーフバリ。あとマッドマックス。あとパシリムとシン・ゴジラ。

とはいえなんとなく期待はしてたんですよ。どんなもんじゃろと思って。でもわたくしにはちょっと合わなかったかも。これはいい悪いではもちろんなくて、見ている世界観が違ったのだと思います。制作陣の思惑と。


結構ですね、この映画の主人公なかなかハードな運命とダンスっちまってまして、冒頭から一親等をダブルヘッダーで亡くしますよね。あのさつきとメイの父親みたいな父親と、あとはなんだか形容しがたい母親を。ノリが妙。なんかでもこの主人公、通称「おっこ」は割とドライな感じでスーツケース片手に旅館経営している祖母んちに引っ越して…というのが物語の始まりなわけなんですけど。

原作は読んでないんですが、この映画に限ると主要な登場人物のほとんどが「身近で何らかの死を経験している」ていうのがこれもう相当に偏ってんじゃないかと思うんですよね。主人公のおっこはもちろんのこと、ライバルのピンふりは姉を亡くしており、旅館へやってくる客も「妻(母)を亡くした父と息子」だったりなんなら「おっこの両親が死ぬ事故を起こした当事者」だったりするわけで、結構いやいやいやってなって、まぁなんか幽霊が友人として出てくる時点でだいぶ「死」のにおいが濃厚だったりするわけなんですが、最終的に「輪廻」みたいな話が出てくるところで、なんというかこの「死と隣り合わせ」な世界観は割と意識的なんじゃないかなと思うわけです。死と隣り合わせというか、もはや生と死は不可分ぐらいの濃厚接触な世界観なのかなと。

そう思えば途中でピンふりが語る「医食同源」あるいは「レストランの語源」みたいなところですら、なんかそういう伏線だったのかなと思うくらい。

あーそうね、食べ物というのも多分この映画においてはかなり重要なアイテムで、それこそ生と死をつなぐために存在しているくらいのやつで、それはおっこが「もてなす側」であるというのも関連してるかなと思いますよね。

なんか旅館というと本当の目玉は温泉だったりして、実際にグローリー(一部の界隈に絶大な人気を誇るっぽい占い師)なんかは温泉にどぶどぶ浸かってるんですけど、それ以外のキャラに関していうとほとんど湯浴みしているシーンはない、あったっけ? 本当に皆無な気がするが? 温泉は来るもの拒まずとかめっちゃ言ってなかった? ていうくらい存在感なくって、代わりに逐一出てくるのが「食べ物」ですよね。

食べ物ってなんかこれはもう適当に書いてますけど、向こう側の食べ物を口にすると向こう側の住人になってしまうとか豚になって温泉宿の湯なんとかババァに飼われちゃうみたいな話があるじゃないですか。おっこはねぇ、どちらかというと「向こう側」の食べ物を現世の人々に食わせる側の存在なんじゃないかと思うんですよね。それによってなんというか苦しむ悩む人々に救い? 果たしてそれは救いなのかもわからんが? 少なくとも何らかの変化をもたらすという。

なんかこれは割と顕著でねぇ、温泉プリン? みたいなのあるじゃないですか。あれ結構最初の方で「おっこが作る」んですよね。旅館にはめっちゃ経験豊富な板前さんがいるにも関わらず、それを差し置いて小6女子が拵えたスイーツを板さんをして「これお客さんにも出せますよ!」とか言わせて実際出してしまう。要するに最初の方からもう「おっこが食べ物を食わせる」必要があったわけですよね。後半のCV:山寺宏一に食わせるメシも作ったのは板前さんとはいえ、その手配をしたのはおっこだったし(関係ないけどここのくだりのピンふりすごくかわいい。

思えばこの旅館の客、だいたいそういう死の淵からおっこのメシを食ってなんか元気になっている(そういう意味ではグローリーさんもそうなんだけどグローリーさんだけ「恋人にフラれた」みたいな話でこっちとしては「か、軽〜!」みたいになるのウケる。そこらへんもなんというか全員死に体みたいになってるのはあまりにあまりだからみたいな話なんだろうか。グローリーさん噛ませ犬説)のは、あるいは「死」を解き放つといった儀式みたいなものなのかもしれないな。弔いじゃね。

思えば「酒」についての言及もこの映画は結構しつこくて、まず小説家の親子も父親(CV:バナナマン設楽)がこれ見よがしにビールをぐいぐい飲んでるのが結構気になったんだよな。この父親もグローリーさんも結構明るいうちからグビグビ飲んでて、ただそれ(酒)については作中でほとんど言及されないんだよ。「ちょっと飲み過ぎじゃないですか〜」みたいな一言すらなかった気がする多分。そして山寺宏一(改めて書くと山寺宏一が声を当てているキャラはおっこの両親が死ぬ事件を起こした当事者)も退院したばっかで酒を直接飲むことはできないんだけど、そのくせ酒をふんだんに使った料理を振る舞われるんだよ。酒を使った炊き込みご飯? みたいなのをワイングラスによそって出されたりする。いやいやいやいや。見てる時点でうっすら違和感あったけどよくよく思えば相当意識してやってるよな。

で、酒もまぁそうですよね。お神酒とかもありますけど、あっちとこっちの境を曖昧にする、結ぶ媒体の一つでしょう。思えば幽霊を見ることができるおっこは既にあっちとこっちの間に立っているわけで、ざっくりいうと巫女みたいなものですよね。なんか思えば思うほどめっちゃくちゃに古典的な映画だなこれ。

それでまぁ、そういったもてなしを受けた客側がどういう風な意識変容をしているのかというと、これはあんまりちゃんと描かれていないというか、母を亡くしたあかねにしても、自らの事故で見知らぬ夫婦を殺めた男にしても、なんとなく受け入れているっぽいけど、具体的にどうなったかは見えてこず、逆におっこの世界だけが際立って描かれるんだよな。

だからおっこ以外の人にとっては想像なんだけど、「死」に囚われることがなくなったというのは、これは「忘れる」のではなくて、それを自然と自分や世界に重ね合わせるというか、それが見えないものだとしても「あるもの」として受け入れていく(「一人じゃない」と思える)というようなことが起こってるのではないかなという感じがする。ピンふりが提示する「医食同源」は体の健康をもたらすものだけれども、おっこの食べ物によってもたらされるものは体よりメンタル面に作用するんだよな。そういう意味でもおっことピンふりは対極である。

ただまぁ意識が変容するのはおっこ自身もそうであって、最終的に幽霊の誰もが見えなくなってしまう中で、それを単純に受け入れるとも少し違うような、自然なものとして受け止めるような、それこそ「生と死が実は別物(あっちとこっち)ではなく重なり合っているのである」と認識するような感じなのかなと。それを実際「生と死」の間にいる、媒介としてのおっこが他の同じく囚われている人たちに食べ物や酒をもって「もてなして」伝えていく話なのかね。生来の感覚を持ち合わせている(事故きっかけとはいえ)おっこが、それを持っていない人にその世界観を伝えていくような感じ。巫女でありシャーマンであり芸術家ですね(適当。

で、最後におっこは神楽を舞いますよね。いよいよ巫女でシャーマンで芸術家な感じだけれども。で、その時におっこだけが面を被っている(ピンふりは被ってない)というのは、これはおっこが「旅館の若おかみ」ていう、個を超えて公としての仮面(ペルソナ)をゲットしたということかなとも思ったんだけど、むしろこれは本当に「生と死」の間にいるみたいな神性を獲得したみたいな意味でもいいのかな。ここもそういやほんのり違和感あったのは、面をちゃんと被ってないんですよね。面はおっこの額にあって、おっこの顔はおっこの顔で見えている、というのもやはり2つの世界の重なりを示唆してるんですかね。ネパールとかの仏眼(半目なのは片方であの世、片方でこの世を見ているから)みたいな。それで最終的に涅槃みたいな花が降ってきて終わりでしょう。あの瞬間、本当にこれで終わって欲しくないと思ったんですけど。いやだってそれで終わられてもねぇ、と思って。

余談であるが思えばグローリーさんは、この作品に出てきたキャラクターの中で一番おっこに近い存在でもあるよな。こっちとあっちの間にいて、こっちの人々にあっちの話を伝える立ち位置なので。あーなんかそう思うと二人が温泉の中と外にいて話すシーンとかめっちゃくちゃ示唆的では? 知らんけど。

という感じで、色々考えてみるとすごくやさしい世界観の映画だなと思いました。自分はまったく共感できないのであまり好きではないんですけど、とても興味深い(いい意味で違和感ありありな)映画だったと思います。

あとこれを書く前に以下のまとめを読んでいて非常に参考になりました。
興味がわいた方がもしいれば併せてご参照ください。
https://togetter.com/li/1520093

なんか書き始めたらすごく長くなってしまったな。読んだ人がもしいたらおつかれさまでした。おやすみなさいませ。

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