東京五輪リレー侍痛恨のバトンミスの深層
今回のリレー侍のバトンミスはなぜ生じたのか?
日本のリレー侍は世界最高レベルのバトンパス技術があり、
その故、走力だけでは多少見劣りしても、バトン技術でカバーして
度々メダルを獲得してきた。
今回も日本のリレー侍の活躍が期待されていた。金メダルも夢ではないと。
パーソナルベストが9秒台を3名をそろえて日本陸上界史上最強とも言われた。
しかし一走多田と二走山縣の間で痛恨のバトンパスミスを犯してしまった。その後、三走の桐生選手はインタビューに答えて「チャレンジした結果なので悔いは無い。誰も悪くないと」と。
その言葉には偽りはないと思うしナイスチャレンジだったとも言える。
それを受けてマスコミは概ねリレー侍は成果を出そうとして、これまで以上に攻めるバトンパスにチャレンジしてその結果バトンミスになってしまったとと報道した。
しかし私的には今回の件はイマイチ腑に落ちないと感じた。
厳しい意見かも知れないが、バトンパスを 今まで以上のタイミングを本番で追求していった事は、 チャレンジではなく無理だったのではないか?と
その無理な意気込みが多田選手と山縣選手の微妙なタイミングのズレにつながったのではと。
「攻める」と「無理」は紙一重ではあるが全く異なるモノではないかと思う。
「攻める」とは、今まで出来たこと、練習したことの範囲内で最もチャレンジングな選択することではないか?
「無理」とは、今まで出来たことの範囲を超えた事をいきなり失敗の許されない本番で試すことではないか?
攻めるではなく無理を選択したことが痛恨のバトンパスミスに繋がったと思う。
なぜ本番でいきなり無理をしようと思ったのか?
複数の 伏線があったのだと思う。
まず、リレーの予選でギリギリ8着で本番滑り込み。
このままではメダル獲得は困難では?との不安な気持ち。
そして更にその前の伏線として今回の陸上男子短距離の惨敗。 100メートル3名および200メートル2名が全員予選落ち。パーソナルベストもゼロ。
この日本短距離陸上惨敗の結果が彼らに予想以上にメンタルダメージを与えていたのでは?と思う。
更にその伏線の伏線として、国内での侍リレーへの過大な期待と五輪成果への甘い見通し。 彼らはある意味、国内ではお山の大将たちなので、常に上位にいるのが当たり前という経験値が多い。
またタイム(パーソナルベストだが)だけみると海外勢にも対応できるとの錯覚がまん延していた。 それが五輪前の状態だったと思う。
その状態で五輪に突入したので惨敗からの切り替えはこれまで経験したことがなかったほどの難儀であったと想像する。
メンタルダメージが想像以上に大きく気持ちの切り替えができなかった。
そして普段どおりに走れば勝てるリレー侍十八番の冷静なバトンパスを狂わせてしまった。
本番前に失敗を誘う伏線が何重にもあった、それが無理を選択する判断に繋がった、そして結果そうなった。それが今回のミスの真相ではなかろうかと。
イタリアの優勝タイム(37:50)をみると現在のリレー侍が普段の実力を出していれば届く範囲だと思うと悔しい気持ちも湧いてくる。
もちろん本人たちが一番悔しい思いをしていると思う。
今回の出来事で、日本の短距離陸上界はタイム的にもまだ世界と距離があるが、実はそれ以上にメンタルの強さという面でも世界と距離があると感じた。
今回の件は、結果だけでなくプロセスも、プロセスも技術面だけでなく、メンタル面についても、よく検証して、ステップアップして欲しい。
今回の経験からよく学習してパリではリベンジして欲しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?