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はじめに──私たちに共通する人間性──『ブループリント』#1

ビル・ゲイツが「これほどの希望を感じて読み終えるとは、予想もしなかった」と絶賛し、全米ベストセラーを記録した本があります。イェール大の大物教授、ニコラス・クリスタキスの新著『ブループリント』です。人種差別からコロナまで、世界が「分断」に揺れるいま、進化論の立場から「どうすれば理想の社会を築けるか」を検証する人類史。エリック・シュミット(Google元CEO)、マーク・アンドリーセン(Netscape創業者)、伊藤穰一(投資家)といった経済界のビッグネームたちがこぞって賛辞を贈る、本書の冒頭部分を公開します(全3回)。

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はじめにーー私たちに共通する人間性 #1

熱狂する「群衆」

1974年7月、子供だった私がギリシャで夏を過ごしていたとき、思いもよらず軍事独裁者たちが権力の座からすべり落ちた。前首相のコンスタンティノス・カラマンリスが、亡命先からアテネ中心部のシンタグマ広場へ戻ってきたのだ。

その晩、大群衆が大通りという大通りを埋め、広場へと向かった。母は私と弟を街に連れ出した。それまでの数時間、軍事政府は大量のトラックを通りへ送り込んでいた。トラックには武装した男たちが乗り込み、拡声器が備えつけられていた。兵士はこうがなり立てた。

「アテネ市民のみなさん、これはみなさんには関係ありません。家から出ないで下さい」

母はその警告を無視した。私たちはシンタグマ広場から1街区ほどの場所まで近づいた。母は私たちを巨大な石壁の上に押し上げた。壁のてっぺんにはフェンスがある。弟と私は、どうにか身を置ける狭い石棚でフェンスに背中をあずけて立った。眼下の母は人混みに飲まれて身動きがとれなくなっている。

群衆は汗まみれでびっしりと立ち並んでいる。夜中になってカラマンリスがアテネに到着すると、人びとはにわかに活気づいた。庶民はスローガンを連呼し、長年の独裁と外国の干渉に対する積もり積もった不満を吐き出しはじめた。

「拷問者を打倒せよ!」
「アメリカ人は出て行け!」

社会現象の研究者としてはおかしな話かもしれないが、当時からいまにいたるまで、私は1度として「群衆」というものに好感を抱いたことがない。フェンスにしがみついていた子供の私が、興奮しつつもほとんど恐怖しか感じなかったのを覚えている。まだ12歳にすぎなかったとはいえ、ただならぬ事態を目にしていることはわかったし、それが私をおびえさせたのだ。

群衆の騒々しさと怒りは増すばかりだった。彼らがお祝いをしようとしているなら、なぜそんなにいきり立つんだろう?私は誇りと不安の入り交じる複雑な気持ちで母を見下ろした。母──美しく優しい母──もまたその場の雰囲気に溶け込みつつあったからだ。

母はギリシャ人であることに誇りを感じており、多くの同胞と同じく民主主義の復活を喜んでいた。母がきわめて教育熱心であり、この歴史的事件に参加することで私たちに何かを学んでほしいと願っているのもわかっていた。アメリカにいたころは私たちを公民権運動行進や反戦デモに連れて行き、世界を見せようとするような親だった。

だが、私は怖さを感じてもいた。母が強い力に押し流されつつあることが、その目を見てわかったからだ。私は落ち着かない気分で、母がますます恍惚としていく様子を見守っていた。母が私たちを壁の上に押し上げたのを忘れてしまうんじゃないか、群衆が移動するにつれて母と離ればなれになってしまうんじゃないか、と心配だった。

アメリカを罵倒するかけ声がひときわ大きくなったとき、突然、母が私と弟を指さして叫んだ。

「Vα οι Αμερικανοί!」──「この子たちはアメリカ人よ!」

一体全体、どうして母はそんな行動に出たのだろう? ギリシャ神話に親しんで育った私は、その瞬間、子を殺す母メデイアの物語が眼前で展開されているのかと思ったほどだ。

こんにちにいたるまで、突如として発せられたその言葉によって母が何をしようとしたのかはわからない。母はきわめて思慮深く愛情に満ちた奉仕者であり、みずから子をもうけたばかりか、さまざまな人種的背景のある養子を迎えていた。激しやすい群衆のまっただ中で、いとしい息子たちがよそ者であることを無謀にも知らしめようとしたのはなぜだろうか。そうした言動によって、分別に欠ける暴徒の熱狂を冷ませるとでも思ったのだろうか。

こうした問いを母に投げかけることはもはやかなわない。私が25歳のとき、長い闘病の末に47歳で世を去ってしまったからだ。

その後私は、母を突き動かした可能性のある主要な力の一部を理解するようになった。それこそ、本書における私の議論の核心をなすものであり、「社会の善」を推進する力である。

自集団を思いやる能力

自然選択を通じて、私たち人類は集団に加わる能力と欲求、それも特定の仕方でそうする能力と欲求を身につけた。たとえば、自分自身の個人性を放棄できるし、共同体とのつながりを強く感じることで、私的利益に反するような行動、そうでなくとも人びとに衝撃を与えるような行動をとれる。

それにもかかわらず、自分の属する社会集団のメンバーを思いやる能力は、私たちに深遠な何かを与えてくれる。つまり、誰もが自分自身を同じ集団の一部とみなせるのだ。極端に言えば、私たちはみな人間だとみなせることになる。私たちは小集団の同族意識を払拭できるし、大集団への好意を見いだせる。

母の価値観や誰もが共有する人間性への思い入れはわかっているのだから、私はくだんの発言をこう理解したい。ようするに、母は寛容を懇願していたのだと。アメリカ人全員が悪者であるはずがないのは明らかだし、母の愛する子供たちのように、ごく若い少年もいるからである。

数年を経て15歳くらいになったころ、私はまたしても、いまにも爆発しかねない群衆を見た。今回は、社会主義者だった祖父とともにクレタ島へ旅したときのことだ。私たちは全ギリシャ社会主義運動のリーダーであるアンドレアス・パパンドレウが、選挙中、大群衆を国粋主義的狂乱へと駆り立てる様子を目のあたりにした。私はそれ以前に、ヒトラーやムッソリーニが第2次世界大戦へと向かう途中で同じことをする映画を見ていたので、自分が目にしているものを信じられなかった。私たちは群衆のずっと後方に立っていたのでまったく安全だったが、それでも彼らのパワーをひしひしと感じた。

祖父は私を脇へ連れ出すと、指導者たちは人びとの共同体意識と外国人嫌いを同時に利用しているのだと説明してくれた。「デマゴーグ」(扇動政治家)という言葉も教わった。私はこうした経験から大いに刺激を受けたし、熱狂した群衆がかき立てる胸騒ぎをいまだに忘れられない。

1841年に出版された『狂気とバブル──なぜ人は集団になると愚行に走るのか』(パンローリング刊)において、ジャーナリストのチャールズ・マッケイはこう論じている。人びとは「集団で狂気に走るが、正気を取り戻す過程はゆっくりと1歩ずつしか進まない」。群衆のなかの人びとは往々にして向こう見ずな行動をとる──罰当たりな言葉をわめき、資産を破壊し、レンガを投げ、他人を脅す。

こうした事態が生じるのは、1つには、心理学者に「没個性化」として知られるプロセスのせいだ。つまり、人びとは集団と強く一体化するにつれて、自己認識や個人の主体感を失いはじめ、そのせいで1人で行動していれば考えもしなかったはずの反社会的行為に走ることが多い。暴徒と化し、自力で考えることをやめ、道徳的指針を失い、「われわれ」対「奴ら」という昔ながらの姿勢をとって共通の理解をいっさい認めないこともある。

群衆をめぐる私の経験はおおむね悲観的なものだったが、群衆が善へ向かう力となる場合もあるのは明らかだ。非暴力的な群衆でさえ、独裁者や独裁政府をおびやかすことがある。1974年のギリシャ、1989年の中国(天安門事件)、2010年のチュニジア(アラブの春)、2016年のジンバブエ(反ムガベデモ)などでそうした例が見られている。群衆が権力者にとって特に脅威となるのは、よくあるように、明確な組織を持たずに組織的に姿を現すときだ。近年、政府がインターネットへのアクセスをコントロールしようとしているのは、まさに、人びとがいっそう組織化しやすくなるのを防ごうとしてのことである。

1963年のワシントン大行進(マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが「私には夢がある」という有名な演説をしたのはこのとき)から、1965年のペタス橋での行進(このときはアラバマ州の警察が、投票権を求めるアフリカ系アメリカ人の抗議者を容赦なくたたきのめした)にいたるまで、アメリカにおける組織化された有名な公民権デモ行進について考えてみよう。政治意識のある虐げられた個人がより大きな集団と一体になると、彼ら自身の信念が強められる一方、同等の人数でばらばらに行動する孤立した人びとでは持ちえないパワーを部外者に対して示すことにもなる。

善し悪しは別として、群衆の形成は人類にとって実に自然なことであるため、基本的な政治的権利とすらみなされている。アメリカ合衆国憲法修正第1条では、「人びとが平和的に集会する権利、苦情の救済を政府に誓願する権利」は法律によって侵害されない、と成文化されている。バングラデシュから、カナダ、ハンガリー、インドにいたる世界中の国々の憲法で、集会の権利は似たような形で述べられている。共感の能力と同じように、集団を形成し、慎重に友人を選んで交際しようとする性向は、人類共通の遺産の1つなのだ。

(翻訳:鬼澤忍・塩原通緒)

他者を憎まず自集団を愛せるかーー『ブループリント』#2へ続く)

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【目次】
はじめに――私たちに共通する人間性
第1章 社会は私たちの「内」にある
第2章 意図せざるコミュニティ 第3章 意図されたコミュニティ 
第4章 人工的なコミュニティ
第5章 始まりは愛
第6章 動物の惹き合う力
第7章 動物の友情
第8章 友か、敵か
第9章 社会性への一本道
第10章 遺伝子のリモートコントロール
第11章 遺伝子と文化
第12章 自然の法則と社会の法則
原注
訳者あとがき