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【コラム】VTuberと歌い手の違いって無いよね?【歌い手史を作るプロジェクト】


インタビュアー「一部の歌い手とVTuberのコミュニティが日々重なっているなと感じています」

そらる「色々活動で悩んでいるVTuberから音楽面や活動面で相談を受けることがあって。[中略]VTuberが同じような道をたどっているようなところがあったので」

(「コロナ禍・VTuberシーンとの融和を経て」KAI-YOU・2022年7月)
そらる(SNSアイコンより)

  過去の記事のコピーをめくる手が、おもむろに止まった。はっとして目をこすり、小さな文字を凝視してみる。眠気で重力に負けそうだったまぶたが、わずかに軽くなった。

 歌い手自身も、VTuberとの近さを感じていた。

 ーーもしかして、歌い手という存在の自己認識を揺るがせたのは、VTuberの登場だったのではないか。

 この至極当たり前のように思える答えに、やっと至った時でした。


◆VTuberって何だろう

 だいぶ昔の前稿で2020年頃までに、かつての歌い手たちが“歌い手”と名乗るのを辞めたと書きました。理由は“歌い手”という肩書のデメリットにある、とも指摘しました。

 しかし、なかなか言語化しづらかったのですが、別の理由というか、冒頭で示唆したようにVTuberの影響も大きかったのではないか、というのが筆者の見立てです。

 これもまた忘れられつつあるVTuber、バーチャルユーチューバーの歴史を、ちょっと振り返ってみましょう。

 2018年の雑誌「ユリイカ」掲載の「バーチャルYouTuber略史」(にゃるら著)に基づけば、2016年12月のキズナアイによる自己紹介動画が、初めてバーチャルYouTuberを自称し始めた出来事と位置づけられています。

 次いで2017年に電脳少女シロ(8月)やミライアカリ(10月)の登場を経て、ブームが徐々に拡大したらしい。

 未来を知っている私たちが補うなら、にじさんじとホロライブが後につづくのでしょう。

 月ノ美兎をはじめとする「にじさんじ」勢の切り抜きで人気の拡大や、その独特な消費のされ方(後で言及します)は、VTuber史にとって重要だと勝手に思っています。

月ノ美兎(にじさんじ公式より)

◆歌い手と近い!

 彼ら・彼女らの定義を探すなら、同じ特集に掲載の以下の定義かなと。

「筆者でいえば、モーションキャプチャーの技術を利用して2D・3Dのキャラクターを動かし、動画や生放送などをインターネットで配信しているーーという2点を重視している」

(広田稔「バーチャル化する人の存在」『ユリイカ』2018年7月)

 この時期の歌い手という存在と近いことに、お気づきでしょうか。

 筆者は当時の歌い手を「固有のキャラクター像を持つ、歌ってみたを投稿するユーザー」、わかりやすく言えば、「中の人がいることを前提としたVTuber」と位置づけています。(【歌い手史2014〜17】キャラクター化する歌い手たち 第3の意味の成立 ”中の人”がいるVTuber

 歌い手側も歌ってみた以外の活動をしていて、VTuber側も歌ってみたの投稿をすることがあることを考慮すれば、両者を明確に分けているのは「中の人がいる前提」の有無しかない、と整理できます。

 ここまでは比較的当然の話で、歌い手とVTuberは近い存在に決まっているだろ、という外形的事実を改めて提示したに過ぎません。

◆Vにも中の人がいる

 ですが、その唯一の相違点たる「中の人がいる前提」ですら失われていたのではないかと、筆者は思うのです。

 でも思い返してみたら、中の人がいる前提のVTuberって、結構思いつきませんか?

 たとえば、にじさんじの卯月コウ。にじさんじ公式設定によると、「有名企業のCEOを父に持つ育ちの良いお坊ちゃん。無愛想でツンとした印象だが、心を開くと年相応の男子中学生」らしい。


卯月コウ(にじさんじ公式より)

 時たま配信を見ている筆者からすると、爆笑を抑えきれません。

 「先輩を煽ったあげくクソを漏らした男の謝罪配信」(2019年4月)のタイトルで配信する男です。プロフィール兼シュールギャグか何かでしょうね。

 余談はさておき、こうしたキャラクターのプロフィールと異なる行動は、視聴者に中の人の存在を感じさせるものだといえます。こうした存在はとくに珍しいものではなく、「ユリイカ」の特集でも、

「現実の個人がガワを着ているという態度をはっきり表に出している方もいれば、もっと綿密なキャラクターを持っている方(これは日本に特有な『なりきり』文化の延長であると考えられます)もいる」

(AO「輝夜月と仮想世界に!」『ユリイカ』2018年7月)

 との言及が既にあります。

 にじさんじ運営のえにから関係者によると、「それだけ雑な体制だったのが、何かうまくいっちゃった」という話で、綿密な計画に基づいたブームではなかったらしいです。

◆視聴者も織り込み済み

 消費者―視聴者の側も、同じように中の人がいる前提を共有しながら、それも織り込み済みでVtuberを消費していました。

 卯月コウの例をひくなら、中の人は筆者と同年代くらい(90年代後半生まれ)との前提のもと、ホモソーシャルなニコニコ動画的香りがする雰囲気(「クソを漏らした」とか)を視聴者と卯月が共有しながら、時折ネタにされながら愛されていました。(昔のにじさんじってそういう存在だったよね、と言ったら懐古厨すぎますかね。)

 批評家の難波優輝氏の言葉を借りて、整理してみます。

「パーソン(実際の人物)がはっきりと現れているようにみえる場合、鑑賞者はVTuberを『パーソンのペルソナ(メディアを介したパーソンの現れ)として』鑑賞しているといえる」

(「バーチャルYouTuberの三つの身体」『ユリイカ』2018年7月)

 小難しい表現を避けるなら、中の人の表れとして、視聴者はVTuberを見ているという話に要約できるでしょう。

 暗黙のうちかもしれませんが、視聴者は中の人がいる前提でVTuberを消費していたんです。

◆歌い手と違い無くない?

 振り返れば、歌い手とVTuberの確たる違いは、「中の人がいる前提」の有無だったはずです。しかし、実はVTuberの方も中の人がいる前提で消費されていたとなれば、両者の明らかな違いは見つかりません。

 歌い手を歌い手たらしめる定義が、また揺らいでしまった。歌い手が、自分たちを歌い手だと信じる自己認識の源が、また無くなっていたんです。

 冒頭のそらるのインタビューには、こんな言及もありました。

「歌い手というものの定義がすごく広がった感じはしています。VTuberをやりながら歌を投稿している人もいるし、ゲーム実況や雑談配信をしながら歌を投稿している人もいるし。歌い手と言いながらも色々な露出があります」(そらる)

 そらるは2008年に活動開始した、今では極めて古参の歌い手です。2012年にメジャーデビューを果たして、まふまふとのユニット「After the Rain」でポケモンの主題歌まで担当するほど、目立った存在でした。(かつては悪い話でもちょっと話題になりましたが。)

 その彼がこの調子です。きっと、当時のそらるに「歌い手って何?」と聞いても、明確な答えは返ってこなかったでしょう。

 定義が曖昧な肩書は、徐々に名乗られなくなっていく。これは前にも述べた通りですが、VTuberの登場によって、彼らはまた同じ事態に陥ったのではないでしょうか。

◆歴史を遺そう

 ということで、既存の歌い手が歌い手と名乗らなくなった理由の一つに、VTuberの登場による影響もあったのではないか、というのが今の筆者の持論です。

 もちろん、歌い手と名乗るデメリットがあったことも、大きな要因だと思っています。その補論、という感じですね。

 こういう歴史系って、考えれば考えるほど、資料を探れば探るほど、新しい発見が生まれていきます。そして追加で色々書きたくなってきてしまうんですよね。で、冗長な文章ができあがっていく。

 ただ、自分で言うのもあれですが、記録に残すことは間違い無く重要なことです。

 ニコニコ動画から動画が消されていくのが良い例ですが、僕たちが当たり前に生きていた・過ごしていた文化の記録は、いつの間にか消えてしまうんです。プラットフォーマーの一存で。記録の無いものは、後世では無かったことになります。

 そうしたくなければ、各々が書くことが重要なんです。もちろん動画でもいい。記録に残せば、僕たちが保持していた記憶は、たしかな事実になります。

次回→【歌い手史2021~】ボカロ再ブームとAdoの登場 第2の意味の復活【歌い手史を作るプロジェクト】

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