【コラム】”歌い手”と歌い手との関係は?【歌い手史を作るプロジェクト】
著名な歴史家のE・H・カーは、歴史とは「歴史家による事実の選択ならびに整理を俟って初めて歴史的事実になるもの」(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波書店、1962年)だと言います。
要するに、書くべきことと書くべきでないことの取捨選択をすることこそが歴史家の責務だと、カーは主張しています。
しかし一方で、それは細部を省きすぎてしまう恐れもはらみます。
たとえばこの文章。
この文章は、筆者が書いたコラム『歌い手の起源はニコニコ動画? 2ちゃんねる?』の文章の一部です。
ここで筆者は、音楽評論などで使われる歌い手という言葉と本稿の主題の歌い手という肩書との関連性について、さらりと言及を避けています。
話題に触れないことで、論証の責任を逃れようとしているのです。
気になった人もいるのではないでしょうか。
というかいてほしい。
これについて、筆者は謝罪しなければいけません。こんな書き方は、書き手として誠実な態度とは言えません。誠に申し訳ありません。
でも、一応言い訳をしておくと、筆者自身、葛藤を抱えながら書いていました。
なぜなら、何を隠そう筆者自身が、かつての歌い手と現在の歌い手にはある程度の連続性があると思っているからです。
◆従来からの歌い手の意味
そもそも、従来から使われている歌い手とは、どういう意味の言葉だったのでしょうか。
オンライン辞書・事典検索サイト「ジャパンナレッジ」を使って調べてみると、こんな結果が出てきます。(2021年参照)
どの結果を見てみても、歌手との明確な違いは書かれていません。
なるほど。歌手と歌い手という言葉の間には何の意味の違いも無いようです
——と言いきってしまってはいけません。
別の言葉として存在している以上、その2語の間には何かしらの違いがあると考えるべきです。
中学英語では同じように賢いと訳すsmartとwise、cleverという単語にも意味の違いがあるように、単語が違えば何かしらの差異があると考えなくてはなりません。
なら、その違いとは何なのか? 次の2つの文章から、考えてみようと思います。
いずれの文章も、ネットに歌ってみたを投稿する歌い手のことを指す文章ではありません。1つ目に至っては、そもそもネットが日本中に普及する前の文章です。
2つの文章の歌い手という言葉の使われ方を見てみましょう。
1つめは、「中国側で制作が進んでいる『日中友好15周年記念レコード』」を歌う存在として、“歌い手”という言葉を使っています。
2つめは、名義上で歌っている2次元のキャラクターではなく現実世界で歌う声優を指して、“歌い手”という言葉を使っています。
細かく言えば、1つめは「日中友好15周年記念レコード」の歌唱者を指す名詞として、2つ目はそれぞれの声優が演じるキャラクターと対比した現実の歌唱者を指す名詞として、歌い手という言葉が使われています。
・・・・・・お気づきでしょうか。
この2つの文章では共通して、歌唱している存在の“歌唱している”という要素を強調する、逆に言えば、暗に「その曲の保有者(≒作曲者など)は別にいます」と強調する意味合いで使われているのです。
1の場合は言わずもがなでしょう。
2の場合も、あくまで本来はキャラクターの曲であることが前提になった上で、その歌唱者=声優を指すために歌い手と言っているのです。
辞書には歌手と同義と書かれていましたが、歌い手という言葉には、こういう歌唱者としての要素を強調するオリジナルの用法があるようです。
簡単に言えば、「歌い手は○○です」と言った場合、「歌手は○○です」というよりも、「ボーカルは○○です」というニュアンスに近くなるという特性があるということです。
◆関係ある?
この事実をおさえておくと、現在の歌い手と従来からの歌い手という言葉の間に関係性が無い、とは言いきりにくくなります。
筆者が語る歌い手という存在は、時期によって意味が変遷しているとはいえ、いつの時代も「インターネット上に第三者の楽曲の歌唱(≒歌ってみた)を投稿するユーザー」を意味する、歌唱者に注目する点は共通しています。
一方、従来からある歌い手という言葉も、他の何かと併置してその歌唱者としての要素を際立たせる際に使われます。
こうした点を考慮してみると、従来からある歌い手という言葉と、かなり近い意味であることがわかります。
ネットの部分を除けば、両者はほとんど同じ意味です。かなり近いというか、違いを見出す方が困難です。
◆環境からの裏付け
加えて、現在の歌い手という言葉が広まった環境も、両者の関係をにおわせます。
歌い手という言葉が広まった2007、8年は、その舞台であるニコニコ動画で、作曲者の存在感が急激に高まった時期にあたります。
何があったのでしょうか? ——ボーカロイドが登場したのです。
ボーカロイド(以下、ボカロ)とは、歌声合成技術VOCALOIDを使ったソフトウェア、または歌声合成ソフトウェア全般のこと。07年8月31日の「初音ミク」発売を機に日本に広まり始め、2024年現在では珍しい音楽ではなくなりました。
このボカロがもたらした影響について、こんなことが言われています。
ボカロが広まったことによって、作曲者の存在感が高まったというのです。
この説を初めて目にする人も多いと思うので、例をあげてみましょう。
たとえば、2000年にリリースされた楽曲「サウダージ」は誰の曲でしょうか。——曲を聴いたことある人の大多数は、ポルノグラフィティの曲と答えるでしょう。
実際の情報はこれです。
作曲:本間昭光 歌唱:ポルノグラフィティ
作曲と歌唱者が異なるにもかかわらず、ほとんどの人は歌唱者を真っ先に答えます。作曲者は別にいるにもかかわらず、歌唱者の曲として認知されています。
一方、ボカロ曲「六兆年と一夜物語」は誰の曲でしょうか。答えられる人は、多分、kemuの曲と答えます。
こちらの曲の実際のデータは、次の通りです。
作曲:kemu 歌唱:IA
先ほどの「サウダージ」の場合は歌唱者のポルノグラフィティの曲と呼ばれる一方で、ボカロ曲「六兆年と一夜物語」では作曲者であるkemuの曲と呼ばれます。
ボカロ曲では、作曲者の名前が前面に出てくるのです。(08年ごろには例外も結構あります。ex.Supercellのファーストアルバム『supercell』では曲は初音ミクのものとされています)
どうしてこんなことが起こるのかは、先ほど引用した書籍には明確な説明が書かれておらず、 正直なところ明確にはわかりません。
ただ筆者の勝手な推論を述べるなら、あまりに多い初音ミクの楽曲を区別するために、より細かくなるボカロPの名が使われるようになったのかと考えています。根拠はあまりないです。
こうした効果によって、ボカロが広まり始めた07、8年は、その舞台であるニコニコ動画では作曲者の存在感が高まっていたのです。
◆やっぱり関係はありそう
こうした情報を知ると、従来からある歌い手と現在の歌い手の間の関係を、ますます明確に感じてしまいます。
従来からある歌い手という言葉が使われるのは、歌唱者と何か別の存在——作曲者や作詞家などとの対比を際立たせたい場面です。
それと同じように、現在の歌い手という言葉が広まった08年頃のニコニコ動画には、作曲者の名前を目立たせるべきという風潮が生まれつつありました。
ボカロの登場によって作曲者の存在感が際立ち、作曲と歌唱がきちんと区別される環境——つまり、かつての歌い手という言葉が使われるような空間が存在していました。
現在の歌い手という言葉がそういった空間から生まれたことを考えれば、従来からある歌い手と歌い手の関係を否定するのは難しいことのように思います。
勝手な推論を披露するならば、従来からある歌い手のいち派生として、今の歌い手という言葉が生まれたのではないかと思います。
次回→【歌い手史2009,10】歌い手観の対立 パンダヒーロー騒動が可視化したもの【歌い手史を作るプロジェクト】
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