理想の声で理想の歌を歌うため

オペラを歌い始めてから、もうすぐ20年が経とうとしている。
自分でもちょっとびっくりだ。
何が自分をこうさせているのか、全くわからない。

どうしても理想の声で歌いたくて、遥々ニューヨークまで来てしまった。
どんなに練習しても、どんなに難しいパッセージを繰り返し歌っても、理想の声じゃないからなんか違う、なんかやだ、なんか納得いかない、なんでわたしゃこんな声で歌っているのだ?etc.etc....こんな状態が嫌で嫌でたまらなくて、歌が嫌いになってしまいそうで、これはもう死ぬ前に理想の声をGETしなくちゃ、その声で思う存分歌わなくちゃ、人生終われないと思ったのだ。

私が初めて見たオペラは、ビデオテープ(もはや死語になったのか?)で、アンジェラ・ゲオルギューの「椿姫」だった。初めて歌を習った先生から借りた。先生は、「彼女の声はあまり良くないんだけど。」と言って貸してくれた。声の良し悪しがわからない私は食い入るように何度もそのビデオを観て、なんだかよくわからないまま魅入られてしまった。

そして、考えるようになった。良い声と良くない声とは?何が違う?

その後学生時代に数人の先生のもとで学んで行く中で、他の生徒たちのレッスンも見学しながら、一体何が違うんだろう、良い声はどこから来ているんだろうという興味が尽きなかった。

残念ながら、歌っている本人は、自分が出している声を自分で聴くことができない。先生に教わる中で、「それが良い声」と言われたときの体のフォームを覚えて、それを再現していくしかない。これが歌う上で非常に難しいところで、先生無くしては私もすぐに道を踏み外す。

自分の体の中に、正しいフォームがスタンプされないまま歌っていくと、次第に間違った方向に行きがちだ。一部の天才的な歌手以外は、これは避けて通れない道だろう。

どうしてもどうしてもどうしても、往年の素晴らしい歌手たちのような声が欲しいと思った私は、このために私の人生を捧げることを厭わないと決めた。

一筋縄ではいかないベル・カントの道。

常に理想を追い求めすぎるというのもいけない。
理想の声じゃなくても、自分の歌を仕上げて、どこかで必ず歌わなくちゃいけない。
声を作っている最中に曲を仕上げると、曲自体はある程度仕上がるが、以前の歌い方の癖に引っ張られて、今度は出来上がってきていた声が後退してしまう。
でも音楽を作る上での学びももちろん必要なので、三歩進んで二歩下がりながら、もどかしさを常に抱えて進んで行くことになる。

そんな時、自分の先生が、自分の可能性を信じてくれているということは非常に励みになる。

理想の声が、どうしても欲しい。
インターナショナル・スタンダードな声が、どうしても欲しい。
その声であの歌を歌ったら、どんなふうになるのかな。

たまに自分の年齢が頭をよぎって、「こんな年齢になってもこうして頑張って、意味があるのだろうか。若くてブリリアントな歌手はたくさんいるのに。かつての同級生たちはああやって活躍してるのに、私は何をしているのか」と思うことがある。たまにじゃないか。結構思ってる。結構辛くなる。

その度に、一生懸命自分に言い聞かせる。

「今日が人生で一番若い。今やらずにいつやるのか。」
「自分の一番欲しいものをAchieveするために頑張ってる!人と比べる必要ない。」

そう、人と比べると、辛くなることの方が多いよね。
自分が欲しいもののために、真摯にやっていこう。

その先に何があるか、何が見えるかなんて、誰にもわからない。

私自身が「精一杯やった!悔いの無い人生を送れた!」と思うことの方が、大事だと思う。

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