25年間の軌跡〜使命に生きるまでの物語~
誰もが幸せになる権利を持って生まれてきた…
縁あるすべての人に幸せな人生を歩んでほしい…
"大切な人を大切にできる自立した人を増やす"
これは私の使命。
お金の無いみじめさ
大切な人を悲しませてしまう自分の弱さ
すれ違う家族…
私と私の家族だけが知る
辛く、必死で生き抜いた過去。
毎日必死で生きて
寂しさ、悲しさ、葛藤、苦しみを乗り越え
成長してきた25年間の軌跡を
ここに残しておこうと思います。
はじめまして。伊藤 希です。
”希”という名前は、
希望を持ち、希望を与えられる人になって欲しい
という思いを込めて母が付けてくれました。
私は1994年4月28日に大阪で生まれ
2人兄弟の長女として育ちました。
一つ下に弟がいて、お母さんと3人家族。
両親は私が幼いころに離婚。
お母さんが女手一つで私と弟を育ててくれました。
お父さんの記憶は全くありません。
今まで一度も会ったことも無いし顔も分からない。
今どこで何をしているのかも知りません。
お父さんがどこかで生きている
って分かったのは私がパスポートを作ったとき。
戸籍謄本にお父さんの名前が記載されていて
「あ、日本のどこかにいるんだ。」と思った。
お父さんの名前を見た時、
不思議と何の感情も出てこなかった。
捨てられたとか、恨みとかも全くなかった。
会いたいと思ったこともないし
“自分の人生に存在しない人”って感じ。
冷たいかもしれないけど、これが私の本心です。
私には、
おばあちゃんおじいちゃんが居ません。
おばあちゃんは
お母さんが16歳の時に交通事故で亡くなり
おじいちゃんは
弟が産まれてすぐ、交通事故で亡くなりました。
お母さんは、
旦那もいない
自分の両親もいない
誰も頼る人が誰もいない中
たった一人で私達を育ててくれた。
本当にお母さんには感謝しています。
私は幼いころ
お父さんや
おばあちゃんおじいちゃんがいる
友達がうらやましかった。
学校に行くと、友達が
「昨日は家族とお出かけしたよ!」とか
「おばあちゃんにお年玉もらった!」とか
言っていたけど
そんな普通のことを
私はほとんど経験してこなかった。
私は幼いながらお母さんに
「何でパパがいないの?」と聞いたことがある。
なんて答えてもらったのかは覚えてない。
でも、お母さんがギュってしてくれたことは
なんとなく覚えています。
私は、お父さんや
おばあちゃんおじいちゃんが居なくても
こうやってお母さんの愛に助けられ
生きてきました。
【私のお母さん】
私のお母さんは3人兄弟。
兄、お母さん、弟と男に挟まれた長女です。
お母さんは昔から姉か妹が欲しかったらしく
私には妹を作ってあげたかったと言ってくれました。
お母さんが16歳の時
交通事故で実の母(私のおばあちゃん)が亡くなった。
それ以降、
家事全般はお母さんがすることに。
まだ高校生だったお母さんは
高校が終わってから夜ご飯を作り
洗濯や掃除など、家事全般をしていたそう。
当時のことを多くは語ってくれないけど
ある日突然、自分の親が交通事故で亡くなり
高校生という若い年齢で
お母さんがいなくなる寂しさは
辛く、悲しいものだったと思う。
想像してみてほしい。
自分が高校生の頃
突然親が交通事故で亡くなったら?
おそらく人生が変わっていたと思う。
だから、親が健康でいてくれることは
とっても有難いし心から感謝するべきことだと思う。
お母さんは短大卒業後就職し
のちに私のお父さんとなる人と出会う。
後から聞いた話だが
私のお父さんは10歳以上も年上で
バツイチ子持ちだったらしい。
離婚して以来、子供とは会っていなかったらしい。
お母さんが私のお父さんとの結婚を決めた時
周りはみんな反対したらしい。
でも、お母さんはその反対を押し切って結婚した。
「彼の良さは私にしか分からない」
って反対を押し切って結婚。
最終的にはみんな祝福してくれたらしい。
「今まで苦労をかけたから
幸せになってくれるなら」
って最終的には認めてくれた。
しかし
結婚後すぐ価値観の違いが目立つようになった。
ケンカも増え暴力もあった。
お母さんは結婚後
この人とやっていけるのだろうか?
と疑問に思ったことが何度もあったらしい。
私が産まれてからは、ケンカも増えた。
お母さんとお父さんの記憶で
唯一覚えていることがある。
部屋は散らかっていて
テレビには砂嵐が映っていて「ザ―――――」という音。
お母さんは泣いていた。私も弟も泣いている。
お父さんとお母さんが喧嘩した後のこと。
その記憶だけが、なぜか今も残っている。
幼いころに
お父さんとお母さんと
一緒に過ごした記憶は一切ないけど
これだけははっきり覚えている。
お父さんの記憶はそれしかない。
お母さんがお父さんとの
離婚を決意したのはこの時だった。
私と弟を守るために離婚を決断した。
お母さんは私と弟に
いつも言ってくれることがある。
それは
「あんたらに寂しい思いをさせたかもしれへん。
でも、あの人と別れたことに一切後悔はない。
あの人と居たらもっと辛い思いさせていたと思う。」
という言葉。
お母さんは
私と弟を何があっても守るという思いだけで
お金も仕事も頼る人もいない中、家を出た。
【家族3人での生活がスタート】
私達は大阪のとあるアパートに引っ越した。
家賃4万円、風呂なし、和式トイレ。
部屋は全部たたみ。そんな家だった。
お母さんは保険の営業をしていた。
保険の仕事は
売れれば収入は多いが
売れなければ収入は低い。
不安定なお給料では
子供を育てていくのは厳しいとの理由で
しばらくして辞めた。
その後
従業員が7名ほどの
小さな会社の事務員として入った。
幼い子供がいることに理解がある会社
幼稚園の送り迎えがしやすいかどうかなど
全ての判断基準は子供。
自分のしたい仕事ではなく
子供にとって最善の選択を常にしてくれた。
幼稚園が休みの日は
お母さんも一緒に過ごしてくれた。
どこか遠くに出かけるようなことは
あまりなかった。
お母さんは疲れて寝ていることが多かった。
私と弟は録画したアンパンマンとか
魔女の宅急便を見たりして過ごした。
魔女の宅急便はおそらく100回は見た(笑)
弟は、お父さんとキャッチボールをしたり
公園で遊んだりしたかったと思う。
本音を言うと
私も家族でお出かけをしたり
お母さんと家でお菓子作りとかしてみたかった。
幼いながらに、
家族の仲が良くて
温かい家庭に憧れを持ちながら育った。
【私の反抗期】
月日は経ち
私が小4になった頃から
お母さんの帰りが遅くなった。
お母さんは仕事を掛け持ちしていた。
お弁当屋さんで働いている
と言っていたが本当かは分からない。
詳しく話してくれなかった。
朝8時30分から仕事に出て
夜は11時とかに帰ってくる。
すっごく寂しかった。
早く帰ってきてほしくて
携帯に何度も電話した。
出ないとわかっていても、何度もかけた。
夜11時過ぎくらいに仕事が終わって
お母さんが帰ってきても
買ってきたご飯は「いらない」と冷たく言い
話しかけられても「部屋入ってくんな!」
と冷たく言い放った。
買ってくるご飯は
マクドナルドとか、王将とか、
お弁当とかそんなのばっかりだった。
毎日買ってきたご飯ばかりで
食べる気も失せた。お母さんのご飯が食べたかった。
私は、寂しさや辛い気持ちを
お母さんに言うのではなく
反抗したり、無視したり、
「何でそんな帰って来るのが遅いの!」
という言葉で責める事ばかりしていた。
本当はみんなで笑い合って過ごしたいのに。
私はそれが叶わない現実を受け止めたくなくて
ずっと反抗していた。
そして、弟も変わった。
カメラを向けると
すぐ変顔をするようなおちゃめな弟だったけど
いつしか自分のことを話さなくなった。
良い言い方をすればクールになったと
言えるかもしれないけど明らかに話さなくなった。
多分、弟も寂しくて、辛かったと思う。
私はお母さんだけじゃなく
弟にも当たるようになった。
一言で言うと「いけず」だった。
自分が良ければそれでいい
相手がどんな気持ちになろうが関係ない
ひたすら人の嫌がることを平気でしていた。
自分の辛さを忘れたくてひどいこともたくさんした。
弟には、
「世界一嫌い」と言われたこともある。
それくらい性格が悪かった。
一歩間違えれば一生恨まれていたと思う。
私たち家族は崩壊していた。
【中学時代の3年間の部活動】
中学生になっても
私の反抗期は続いていた。
一時期に比べてましになったものの
お母さんに自分の気持ちや
日々の出来事を話すことができなかった。
私はバレーボール部に入部。
理由はいとこがバレー部に居たから。それだけ。
のちに、この決断が私の人生に大きく影響することになる。
バレー部の監督は厳しかった。
厳しさゆえに、嫌っている部員もいた。
私も監督のことが好きではなかった。
でも、今思うと素晴らしい先生だったと思う。
練習も厳しく、休みは週1回。
毎日朝6時45分に登校して朝練、授業が終わったら放課後は部活。
土日は練習試合。私の中学校の思い出はバレー部が大半。
私は人から
「まじめ」「一生懸命」「頑張り屋さん」とよく言われる。
その言葉通り
バレー部でも真面目に一生懸命練習に取り組んだ。
(下手だったのもあるけどww)
1年生のころ
先輩たちを見て試合に出ることに憧れた。
かっこいいスパイクが
打てるようになりたいと思った。
そんな一心で毎日頑張った。
何より先輩が面白く部活も楽しかった。
バレーがだんだん好きになっていった。
先輩が全員引退した中2の夏から
私達の代になった。
私達の目標は”ブロック大会優勝”。
全員が本気でそれに向かって練習した。
私達の代の部員は8人。
バレーボールは6人でプレーするため
単純に2人はレギュラーになれない。
必然的にレギュラー争いもあった。
私はずっとレギュラーだった。
誰よりも一生懸命に練習していたし
部活を休むことなんてほぼなかった。
だからレギュラーになれて当然だと思っていたし
レギュラーになれない子よりも上手いと思っていた。
中2の冬頃から
バレーノートを書くよう監督から言われた。
・今月の目標
・練習メニュー
・練習中に気づいたこと
・明日に向けてすること
・今日の感謝など
毎日の出来事を書いて提出するノート。
面倒くさいなぁと思いながら書いて提出していた。
引退まで残り半年というあたりから
今まで補欠だった子が私の代わりに試合に出ることが増えていた。
次第に、試合に出るより
審判をしている時間の方が長くなった。
うすうす気づいていた。
”私はレギュラーに落ちた”ということに。
練習中、悔しくて泣けてきたこともあった。
マイナスなことばかり考えて、
練習していてもミスばかり。
たまに出た練習試合でもうまくいかない。
その時の私は、精神的にも落ちていた。
何が一番きつかったって
レギュラー落ちした理由を私自身が一番分かっていたこと。
結局、私は引退試合に出ることができなかった。
引退試合が終わった後、涙が止まらなかった。
バレー部を引退した後
3年間やり切った!という気持ちは正直なくて
あったのは悔しさだけだった。
その悔しさとは”自分に対しての悔しさ”。
私からレギュラーを取った子は、
決して能力も高くなかったし、身長も低かった。
私は気付かないうちにその子を下に見ていた。
でも、その子は試合に出れなくても
一生懸命練習に取り組み努力していた。
私は試合に出ていることに安心していた。
だから練習はただこなすだけ
努力や工夫は次第にしなくなった。
バレーノートも適当に書いていた。
監督はそんな私を見ていたと思う。
レギュラーを取られた時
“自分が慢心していた“ということがやっとわかった。
最終的に
その子の方がプレーも上手になっていた。
監督は私ではなく
その子が試合に出るほうが
チームとして勝つ可能性が上がると判断した。
私は、レギュラーから落ちたことを
素直に受け入れることができた。
その子が日々努力していたことは
当然知っていたから。
引退後、夜布団に入って目をつぶると
悔し涙が止まらなかった。
バレー部での悔しさを思い出してしまう。一人で抱え込んだ。
誰にも言えない悔しさをずっと持ち続けた。
当時の私は
こんな悔しい思いもう一生しないと誓った。
私のバレー部で過ごした3年間は悔しさで幕を閉じた。
【高校入学とダンスとの出会い】
私は商業高校に入学した。
簿記や会計、情報処理などの授業が多く
将来に活かせるスキルが学べるとの理由で入学を決意。
男女比は女9:男1とほぼ女子高のような学校だった。
私はダンス部に入部した。
新入生に向けて先輩たちが
部活動の紹介をしてくれる機会があり
舞台で楽しそうに踊っている先輩を見て
カッコいいなぁ!と思った。
それに週2日の活動だったため
友達とも遊べるしアルバイトもできて
丁度いいかなぁと思った。
先輩は7人、私達1年生は6人入部した。
高2の先輩は居なかった。
先輩は可愛くて
ダンスも上手で部活はすごく楽しかった。
私が初めて舞台で踊ったのは文化祭。
ダンス部一丸となって一生懸命練習した。
頑張る過程で
やっぱり私はみんなと頑張ること
好きだなぁって思った。
文化祭が終って先輩は引退した。
ダンス部は私達1年生だけになった。
部長になったのは幼いころから
ダンス経験のある子。
副部長は私。(なぜか私が任命された。)
先輩がいなくなってから全員がダレた。
次の目標もなく
部活を休んでも怒る人もいない。
まとまりもなかった。
私が部活に行っても誰も来ない日が何日もあった。
そんな環境に嫌気がさしたのは部長だった。
ある時、部長から「私、ダンス部辞めます」と言われた。
もう顧問には話を済ませ、
辞めると決断したうえで話された。
相談は一切なかった。
なんか、悲しくて切なかった。
無責任だなと思った。
部長が辞めて
副部長だった私が部長になった。
その他にも辞めた子も居て
最終的にダンス部は3人まで減った。
残りの2人も当然
モチベーションは低かった。
遅刻も多かった。
私が「ダンス部廃部にしよう!」
って一言言ったら、確実にダンス部は
無くなっていた状況だった。
ダンス部がなくなる一歩手前まで来ていた。
でも、「終わりにしよう!」
って言えなかった。
先輩たちが作ってきたダンス部を
私達で終わらせることはしたくなかった。
私はある時決心し、
部員の2人に「ダンス一緒に頑張ろう!」
って思いを伝えた。
一からやり直そう!って言った。
私は涙で目が滲み
ちゃんと2人の顔を見ることができなかった。
3人で話し合い
結果的に一から再スタートすることに。
ダンス経験のない3人が集まっての再スタート。
不安いっぱいだったけど、もう、やるしかなかった。
私達は高2になり、
後輩が7人入ってきてくれた。
嬉しかった。後輩の為に頑張ろう!
と本気で思えた。
後輩たちの初めての舞台となる文化祭に向けて
必死でダンスを作り、たくさん練習し、
文化祭成功のためにみんなで頑張った。
文化祭は何とか成功!
後輩たちのおかげで、ダンス部はまた輝くことができた。
【高校の合併】
私の高校は、
私が高3になるタイミングで
3つの高校が合併することが決まっていた。
つまり、必然的にダンス部も合併する。
これがまた大変だった。
合併した後も私は部長をすることになった。
活動の日にち
ダンスに対する考え方
踊るダンス、何もかも違った。
すれ違いしかなかった。
そんな中、後輩も入ってきて
みんながどうしたら
楽しく部活動ができるかを必死に考えた。
ダンス部は40人を超える部活になった。
3人から再スタートしたあの時
こんな光景を想像もしなかった。
今もダンス部は後輩たちが守ってくれている。
一からダンス部をスタートとき、
私を支えてくれた2人には本当に感謝している。
2人がいなかったら
今のダンス部は絶対にないし
後輩にも出会えなかった。
40人で踊る経験もできなかった。
辛いときを共に乗り越え
一緒に頑張ったこの3年間は
私の心の中で一生消えない思い出になった。
【人生を決める大きな決断】
高2の秋頃から
進路を真剣に考えるようになった。
商業高校生は大学に進学せず
就職する人も多い。
お母さんからは
就職を勧められていた。
でも私は就職に気が乗らなかった。
とりわけ、したいこともなかった私は
とりあえず大学の
オープンキャンパスに行ったりしていた。
いくつか大学を見ていく中で
大学生になることに憧れを持つようになった。
今まで恋愛もほとんどしてこなかったし
恋をすることにも憧れた。
サークルとかも楽しそう!と思ったり…。
いくつか
オープンキャンパスに行った中で
一目見て「私、ここ通いたい!」
って直感で思った大学があった。
「関西大学」
関西大学のキャンパスを見た時
雷が落ちた感覚だった。
ひとめぼれしたって
言葉が合っているかもしれない。
オープンキャンパスが終わった頃には
ここしかない!って気持ちでいっぱいだった。
しかし、問題があった。
関西大学に進学するためには、
指定校推薦の“たった一枠”を狙うしかなかった。
商業高校の授業は
簿記や会計の勉強がメインのため
一般入試で合格するのはほぼ不可能。
関西大学に行く唯一の道は
指定校推薦の一枠を勝ち取るしかなかった。
私はこの枠に
本気でチャレンジしようと決意した。
指定校推薦の条件には
日商簿記2級と英検2級の合格が必須だった。
私は、日商簿記は持っていたが
英検は持っていなかった。
つまり
英検を取らなければ
指定校推薦の抽選にも入れない
ということ。
英語はどちらかというと苦手。
高2で受けた英検は全て落ちていた。
英語の先生に
”私の実力じゃこんな短期間で
英検2級の合格は厳しい”
とはっきり言われた。
それでも
私はやるだけやってみると決意した。
中学英語からやり直した。
毎日先生に補修をお願いして
放課後と休日は英語の勉強をやった。
毎日死ぬ気でやった。
ダンス部が終わった後にも補修をしてもらい
夜遅くまで学校に残ってやった。
英語の勉強をしない日はなかった。
英検が明日に迫った最後の補修。
先生に
「正直受かるか受からないかは
微妙なラインと思う。
合格する確率は50%だと思う。」
と言われた。
私も同じように感じていた。
でもやるだけやった!後悔はなかった。
先生に
今までの感謝の気持ちと
絶対やり切ります!という
気持ちを伝えてバイバイした。
勉強を始めた当初は
「合格したい!」そんな一心だったけど
次第に先生のために受かりたい!
という気持ちにもなっていた。
試験当日、全力を尽くした。
受かっている自信は・・・
正直わからない。
次の日、先生に試験のことを報告しに行ったら
「問題用紙持ってきて!採点しておくから」
と言われた。
「昼休みまでにしておくから昼休み来て!」って。
私は昼休み先生のところに行った。
結果は、「不合格」って言われた。
自分が落ちたことのショックよりも
先生に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
先生にたくさん謝ったと思う。
家で、たくさん泣いた。
英検が終わった2日後、
担任に「英検のリスニングテストが再テストになった」
と言われた。
自分でもびっくりだった。
確かにCDの調子が悪く
音がうまく聞き取れない問題がいくつかあった。
すぐに英語の先生に報告しに行き
リスニングの点数が良ければ
合格できるかもしれない!と伝えた。
そして
必死にリスニングの勉強をして
再テストに挑んだ。
結果は、
合格点と同じ点で合格。
ギリギリで受かることができた。
すぐに先生のところに行き合格の報告をした。
先生も自分のことのように喜んでくれた。
先生からは
「こんなこと起きるなんてあり得ない!」
と言われた。
必死で頑張ってきてよかった
と思えた瞬間だった。
私は無事に指定校推薦の条件は揃い
そして、指定校推薦の一枠を
手に入れることができた。
【私の青春時代】
高校時代の出来事で
もう一つ忘れられない出来事がある。
それは応援団長という経験。
あと数ヶ月で
高2も終わるというタイミングで
私は担任に呼ばれた。
そして、あることを言われた。
それは、“体育祭で応援団長にならないか?”
ということだった。
私の高校の体育祭は、
1年生から3年生でチーム(団)を作り
団ごとで勝敗を競う。
そして体育祭のメインである
「団演舞」というものがあった。
ダンスや、ソーラン節など
独自で考えた演舞を発表し
クオリティを競うというものだ。
担任は3つの学校が合併してから
初の学校行事である体育祭で
応援団長をやらないか?
という話を持ち掛けてきた。
私は悩んだ。すっごく悩んだ。
ダンス部もある
それに・・・英語の勉強だって
間に合わない。
そのタイミングで応援団長の話。
私は担任に、「少し考えたい。」
と答えた。
考えれば考えるほど
もしここでチャレンジしなかったら
一生後悔するだろうなぁと思った。
中学時代に経験した
あの「悔しさ」が何度も思い返された。
私は高2最後の登校日
終業式が終わった放課後
担任のところに行った。
「応援団長やります!」
と覚悟を決めて伝えた。
うまくいくかなんてわからない。
英検だってもしかしたら落ちるかもしれない。
それでも、ここでやらなかったら後悔すると思った。
最後までやり切って
ダメだったらそれでもいい!と思えた。
チャレンジせず
後悔することの方が辛いと思った。
私はダンス部も
英語の勉強も
応援団長も全部必死でやった。
体育祭の団活動は私が団長
そして副団長2人。
団長、副団長の3人が中心になって
約120人の規模で活動を行った。
私は今まで
とりあえず目立たないように生きてきた。
地味だった。
だから、そんな私が
120人のトップに立って
仕切っているだなんて。
中学時代の友達は
誰も想像がつかなかったと思う。
親友にも
「希、高校入って変わったね。
リーダーになるキャラじゃなかったのにね。」
と言われた。
ちなみにこの親友は
バレー部で私からレギュラーを取った子。
中学時代、最も一緒に時間を共にした一番の友達。
でも一つ言えるのは、
バレー部の経験が無かったら
高校時代の私はないということ。
団の目標は
“団演舞で優勝すること”
絶対勝ちたい!と思った。
私達の団以外に7つの団があった。
どの団も団演舞で優勝することを目指していた。
団員が120人もいると、
練習をさぼる子や、やる気のない子
中には体育祭当日は休みます!
という子もいた。(かなり大変だったw)
副団長と何度も話し合い
どうしたらみんなにとって
心に残る体育祭になるかを必死で考えた。
出来ることは全てやった。
やる気のない子と直接話したり
練習が遅れている分は個別で練習したり。
最後の最後まで全員が
”この団で良かった!”って
思ってくれるように努めた。
そして、もう一つ私は勇気を出してしたことがある。
それは、
お母さんに体育祭見に来て欲しいと言ったこと
私は、今まで
自分が応援団長を頑張っていることを
お母さんにちゃんと話したことはなかった。
だけど
私の集大成をお母さんに見てほしかった。
勇気を出して誘ってみた。
多分、かなりそっけない感じだったけど
お母さんは仕事を休んできてくれた。
やっぱり恥ずかしかったけど、
本音はすっごく嬉しかった。
いよいよ本番。
団演舞が始まる前
みんなで円陣を組み
「絶対優勝するぞー!」と気合を入れた!
体育祭休みます!
と言っていた子も来てくれて、
誰一人欠けることなく演技ができた。
練習した成果を出し切った。
あっという間の時間だった。
体育祭が終わり、いよいよ表彰式。
団演舞の順位発表は
3位から2位、1位と発表される。
3位では呼ばれない・・・
2位でも呼ばれない・・・
いよいよ1位の発表・・・
副団長は横で
やっぱダメだ…と言っている。
私は“絶対優勝!”
と何度も何度も自分に言葉をかけ
発表を待った。
1位の発表で呼ばれたのは、
私達の団だった。
呼ばれた瞬間
全員が立ち上がり
「キャーーーーー!」っと
歓声を上げて喜んだ。
私は優勝と分かった瞬間
飛び上がり、副団長を抱き合った。
嬉し涙が止まらなかった。
他の団のみんなも一緒になって喜んでくれた。
最後、表彰台で表彰状を渡されたときの
表彰台からみる景色と、みんなの顔は忘れない。
このメンバーに支えられて
団長ができたことに
感謝の気持ちでいっぱいだった。
そして
団長をするという
きっかけを与えてくれた
担任には心から感謝している。
家に帰って
お母さんに会ったとき
少し照れ臭かった。
お母さんは
「すごくよかったよ。おめでとう。」
って言ってくれた。
そして
「希が120人の団員のトップで
団長をしている姿を見てびっくりした」
と言っていた。
私は、お母さんに
自分の姿を見てもらえたことが
何より嬉しかった。
【関西大学入学、大学生活スタート】
念願だった関西大学に入学。
憧れだったキャンパスに
スーツを着て歩いていることが夢のようだった。
これから始まる大学生活に
ワクワクが止まらなかった。
友達もできて
語学のクラスが一緒だった人に恋もした。
(結局実らなかったけどw)
アルバイトにサークルに
充実した日々を過ごすことができた。
サークルは友達と一緒にテニスサークルに入った。
みんなで飲み会したり
花火大会行ったり
ボーリングしたり…
大学生っぽい日々過ごした。
でも、1年経って自分を振り返ったとき
空っぽって感じがした。
高校生の時あんなに頑張ったのに
今は何も頑張れていないことに不安に感じた。
この一年何か記憶に残るようなことを
したかと言えばそれもない。
このままでいいのかと不安になった。
そして、ずっと心残りだったことがある
大好きだった
ダンスをもう一度頑張りたい!
と思った。
高校生の時
ダンスを教えてもらう経験が
ほとんどなかったため
基礎からしっかり学びたい!
ずっと思ってた。
私はテニスサークルを辞めて
ダンスサークルに入った。
みんな温かく迎えてくれた。
しかし、私が入ってしばらくして
上の人達の意向で、ダンス部は解散した。
せっかくダンス頑張ろう!
と思ったタイミングだったから
ショックだった。
それでもダンスを諦めきれなかった私は
ダンススクールに通うことにした。
【初めての海外、留学】
大学2年生の夏頃から
留学に行きたいという思いがだんだん強くなった。
高校時代に本気で英語を頑張った成果を
何かに活かしたいと思っていた。
お母さんに相談したら、
”行くなら自分でお金を貯めて行きなさい!”
と言われた。
大学は奨学金を借りて通っているし
家にお金にがないことなんて分かっていた。
私は自分でお金を貯めて
留学に行くことを決めた。
雑貨屋さんとイタリアンのバイトを掛け持ちし
半年で50万程貯めた。
場所はカナダのバンクーバーを選んだ。
英語が綺麗で治安も良く
街並みがすごく私のタイプだった。
大学の春休み期間に
1ヶ月間一人で留学に行った。
人の温かさ、景色の美しさ、文化の違い
全部が新鮮で本当に貴重な経験ができた。
英語が全然話せなくて
悔しくて、語学学校の先生の前で泣いたこともあった。
カナダに行って
日本に居ても出会ってないような
日本人にもたくさん出会えた。
仕事を辞めて
留学にチャレンジしている人
休学して長期留学している人
ワーホリで何年もカナダにいる人など・・・
私ももっといろんな世界を知りたい!と
心から思えるキッカケをたくさんくれた。
あっという間に1ヶ月が経ち、また絶対帰って来る!と決意し帰国した。
日本に帰国してからの一番の変化は
”本を読むようになったこと”
私は海外に行ったことで
日本という狭い世界のことしか
知らないんだと思った。
だからいろんな価値観を
身近に触れることのできる”本”を
自らすすんで読むようになった。
私の大学時代を一言でいうと
”チャレンジ”だと思う。
大学4年生になった頃には
「ドリプラ」という夢について
プレゼンする大会を運営する学生団体にも携わり
いろんな経験を自分から掴みに行った。
関西大学で過ごした4年間は
本当に充実した日々だった。
【社会人スタート】
私は人の成長に携わる仕事をしたい
という思いから
資格取得を目指す人が通う
予備校を運営している会社に就職した。
入社してからの3ヵ月間は
東京での研修だった。
初めての一人暮らしで
慣れないことも多かったけど
同期や家族の支えもあり充実した日々を過ごすことができた。
3ヵ月間の研修が終われば
地元である大阪で働くつもりだった。
元々東京で働きたいという思いもなかったし
大阪を出る理由もなかった。
しかし
研修後に発表された配属先は
東京の渋谷だった。
落ち込む暇もなく、急いで引っ越し。
本格的に東京での生活がスタートした。
東京に来たおかげで
将来の事をすごく考えるようになった。
昔から幸せな家庭を持つ事が夢で
温かい家庭に憧れた。
仕事は楽しい。
東証一部上場企業で会社も安定。
お給料も悪くない。不満はなかった。
でも、今の働き方を続けていても
自分の理想とする未来が本当に叶うのだろうか?
という疑問が常にあった。
このまま居心地の良い会社に居続けたら
会社中心の人生を送るだろうなぁと想像できた。
住む場所、仕事、帰る時間、プライベートの時間
全て会社を基準に生きていることに違和感があった。
果たして
自分に家族ができたとき
今のままで本当に自分は幸せなのか
とすごく考えた。
社会人2年目になった頃には
会社に依存しない生き方を求めていた。
自分の力で生きていく為に
何をするべきなのか必死に探した。
本も何冊も読み
経営者が通うような
能力開発のセミナーにも通った。
年間で100万円以上
本やセミナーにお金を使った。
今振り返ると
自分の人生を本気で見つめた一年だったと思う。
【運命の出会い】
2018年9月
私は人生の方向性を180度変える
キッカケとなるある女性と出会った。
”自分のビジネスを持つ”
そんな思いで日々動いていたからこそ
出会えた人だと思う。
私は、とあるセミナーに参加した。
そこである女性が目に留まった。
その女性は私よりも年上で見た目は
40代くらいの女性だった。
このセミナーは3日間あり
1日目にその方とお話しする機会があった。
人となりや発する言葉
相手への気配りなどが出来る素敵な女性だった。
そしてその方は独立事業主として
仕事をしていると話してくれた。
こんな女性になりたい!
って直感で思えた人だった。
私はセミナー最終日の朝
何百人と居る会場の中で
その女性を探していた。
そして、見つけて駆け寄った。
「●●さん、私の事覚えていますか?
独立事業主としてのお仕事について
少しお聞きしたいのですが・・・」
と声をかけた。
相手は「あ、はい。」
という感じで少しびっくりしていた。
今思うと私もよく
あの場で声をかけたなと思う。
セミナー後「近くでお茶しましょう!」
と言っていただきお話しすることに。
この日から私の人生が大きく動き出した。
【栄養、健康、お料理との出会い、そして自立】
その女性と出会ってから1年以上の月日が経った。
今では私のメンターのような存在。
信頼もしているし
第二の母と呼べるそんな存在になった。
必ず結果を出して恩返しがしたい!
と心から思えるし、
人として大切なことも
たくさん学ばせてもらった。
何より、女性が自立し
活躍できる場を作りたいと思うようになった。
私はほぼ毎月、
いや、多いときは毎週その女性の所に通い
栄養学、お料理、経済、自立など
今の活動のベースとなる知識を学んだ。
時には一緒に外部のセミナーにも参加し
多くの時間を共に過ごした。
”のぞみんは絶対成功する!”
”たくさんの人に貢献する人財!”
といつも声をかけてくれた。
どんな時も私の可能性を信じてくれた。
”私と出会うことを待っている人がいる!”
といつも自分に問いかけ
遊びも旅行も全部断り勉強した。
勉強に対する時間とお金の投資は
惜しまなかった。貯金も切り崩した。
その甲斐あって
半年後には料理教室や
栄養セミナーを主催したり
個人的に栄養や健康に対して
アドバイスができるまでになった。
そして、学べば学ぶほど
健康や栄養、そして自立について
伝えて行かないと!と思うようになった。
【私がどうしても成し遂げたいこと】
私がこの人生で、どうしても成し遂げたいことがある。
それは
”自立した女性を増やす”ということ。
私は幼いころ、
お金の無いみじめさ
大切な人を悲しませてしまう辛さ
寂しさ、色んな感情を経験し
経済面、生活面、精神面で
自立した女性になりたいと思った。
そして
“家族が仲良くて温かい家庭を持ちたい”
と思った。
“私と同じ思いをする人をなくしたい”
“お母さんのような人を助けたい”
そんな思いから、
私は自立した女性になる!決めて生きてきた。
私は、過去の経験があったから
”自立した人を増やす”というこの使命に気付いた。
現在は、会社員を卒業し
女性キャリア事業をスタートし
自立を目指す女性のサポートしています。
【最後に…】
私には世界で一番
幸せになってほしい人がいます。
それはお母さん。
私は5年以上も反抗期があり
お母さんとの関係は最悪。
家族は崩壊し
私たち家族は経済的にも
精神的にも辛い時期を
何年も過ごしました。
過去にはお母さんが
ストレスで寝込んだこともあるし
何度も泣かせたこともあります。
そんなときでさえ
私は優しい言葉も
掛けてあげることができなかった。
そして
私にはもう一人
心の中で消えず生きている人がいる。
それはもう一人の兄弟。
あるキッカケがあり
お母さんから
「実は、希にもう一人兄弟がいる」
と言われた。
言われたとき
衝撃すぎて言葉が出なかった。
そのキッカケとは
弟が高校生になり
腰が痛い言い始めたときだった。
弟は小学校から
ソフトボールをしていて
中学、高校と野球をしていた。
中学生になった頃からずっと
腰が痛いと言っていた。
どこの病院に行っても
レントゲンを撮っても原因は分からなかった。
それでも腰が痛いので
精神面などで身体の症状を
カウンセリングする人を紹介してもらい
弟とお母さんはその人に会いに行った。
そこで言われたことを
お母さんは重い口で教えてくれた。
お母さんは私を産む前
妊娠し流産していたということ。
カウンセリングしてくれた人いわく
その子が「私を忘れないで!」
と天国で言っていて
それが弟の腰の痛みとして
現れているとのことだった。
私は、自分に
お兄ちゃんかお姉ちゃんが居るだなんて
想像したこともなかったから
それを聞いた瞬間
涙が溢れて止まらなかった。
「なんで言ってくれなかったの!」
ってお母さんを責めた。
その子の存在を
知らなかったとはいえ
存在が無かったものとして
日々過ごしてきたことが受け入れられなかった。
申し訳なくてショックだった。
もしお姉ちゃんか
お兄ちゃんが産まれていたら
弟には会ってなかったかもしれない。
お母さんは流産したとき
どんな気持ちだったのだろう。
そんなことを一人で考えて
答えが出ないことを悩んだこともある。
そのことを知って以来、
その子は私の心の中に
ずっと生き続けてくれている。
お兄ちゃんかお姉ちゃん
どっちかわからないけど
これからも永遠に、私の中に生き続けている。
私はある時、お母さんに
「お母さんみたいには絶対になりたくない!」
と言ってしまったことがある。
お母さんが人生を全て捧げ
私達を育ててくれたのに
自分の弱さと未熟さで
ひどいことをたくさん言ってしまった。
今でもすごく反省している。
私が大学受験に
チャレンジしようと決意したとき
今の自分は
チャレンジするに値する人ではないと思った。
日々の行動や
家族関係を改めない限り
受験しても受からないだろうなぁと思った。
なぜかそう思った。
5年以上反抗し続けた私が
このままじゃダメだとやっと気づいた。
人は変われるとよく聞くけど
簡単じゃない。
変わることは勇気がいるし
短期間で人は変われない。
そのことも痛いほど痛感した。
でも、私は
変わりたいと心から思った。
時間はすごくかかったけど
変わる努力をした。
言葉遣いや行動を改め
出来ることから少しづつ変えていった。
あと3日後に大学の入学式という日に
家族でご飯に行った。
その時、昔の出来事が話題になった。
辛かった時期をみんなで話した。
そこでお母さんと弟に言われたのは
「希は本当に変わったね。
希が変わったから今こうやって笑って過ごせているよ」
ということだった。
時間はかかったけど、私は自分の殻を破り変わることができた。
私はずっと
自分を責めて生きてきた。
”私が産まれてこなければ、
お母さんはこんなに辛い思いをしなかった。”
と本気で思っていた。
”私がお母さんの人生を奪ってしまった。”
と思っていた。
でも、ある時お母さんに
言われたことがある。
「お母さんは希と弟が居てくれて、
それだけで幸せだよ。
あんたらがお母さんの人生を輝かせてくれた。」
この言葉を聞いたとき
救われた気持ちになれた。
お母さんの子供に産まれて良かったと心から思えた。
今までの
「ごめんなさい」と「ありがとう」
が溢れてきた。
私は今、
”お母さんに自分自身の人生を歩んでほしい”
と強く思っています。
趣味や、やりたいことに熱中して
色んな景色を見て欲しい。
海外に行ったことがないお母さんに
感動するような景色を見せてあげたい。
まだ、親孝行なんて一つもできていない。
だから、今度は
私が自分の人生をかけて親孝行する。
そう決めている。
25年間、たくさん泣いた。
楽しいことばかりじゃなかった。
でも、お母さんの
子供に産まれてこれて本当に良かった。
お母さん
これから一緒に楽しい人生を送っていこうね。
25年間本当にありがとう。
そして、これからもずっとよろしくね。
これが私の25年間の軌跡。
過去の経験が今の私を作り
過去が無ければ今の私はない。
今までの全てに感謝し
これからも走り抜けます。
今後とも、伊藤 希をよろしくお願いします。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
2019.12.20 伊藤希