虚無
生まれ落ちた時、後悔し残念と思った
ちぇっ、生まれてしまったのなら仕方がないと思った
小学校の入学式の前日、あしたから集団行動を強いられ、自由を奪われることに虚無を感じた
興味が湧くものが何も無い中で
町とは名ばかりの漁村に、
大学爺さんと名付けられたホームレスがいた
くるぶしまである黒い丈の長いコートをまとい、ボロボロの大学帽を被っていた
線路ぎわに掘建小屋を作り住んでいた
時々民家の板塀にものすごい達筆な漢字を書きつけて行くらしかった
大学爺さんに出会うとドキドキした
生まれ落ちた時から人間の営みが全て面倒臭かったから、
孤独な老人が何か秘密を知っているのではないかと期待した
大人になった今、笑い話に興じるか、悟りの話とかして人をケムに巻いて時間を潰しているが
大学爺さんは口が聞けなかったから
彼から何か教わったわけではない
言葉にはならない薫陶を引き継いだ
人間の世の営みが長きに渡り、営々と繰り替えされることを
繁栄という言葉で飾る
入れ替わり立ち替わりの連続の人生を一度も疑問を抱かない
もちろん誰一人抜けても私は白い米にありつけず、服も着られない
そこで、ひとは一人では生きていけない、という麗句の元に平伏する
ではなぜ10歳の子供の心は安らぎや歓びで満たされていなかった?
人間の営みを離れて山や海を見ている方がなぜ心が落ち着ついた?
私は家族の気配もない庭の木々や猫や花鳥風月で、心の隙間を満たしていた
他の人間は私に無関心だったから
この透明人間がこの世には意味がない、と悟ったとしても文句はつけられない
それどころか何も意味あるものを己の中に見出せないことを
学校教育は
間違いだと言っていた
ただ、ただ虚無あらんこと
風に吹かれて、目は景色を見て、耳は音を聞いているが、心は何も聞いていない
それでは人類の進化は無かったかもしれないが、
個人の最後の旅の終点で
見えるものは自分が無くなって
現れるこの宇宙を観るためだけに
生きているようなものなのだ
社会に役に立つ使命を果たして
生きる実感を得ている者はそこに幸せを見つけ
芸術も文化も、そこで己の証明ができる者は励み
何も貢献できず人のお世話になって
罪悪感を感じていれば
大学爺さんの眼差しで生きて行けばいい
生命よ
人間の大脳皮質まで進化してみたが
そこから見える風景は
いったいどんなだい?