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生ハムの原木の棍棒

月曜劇団観劇‼︎

月曜劇団の本公演『生ハムの原木』を観た。
本公演は実に5年ぶりだという。

フライヤー
フライヤー裏面

月曜劇団の存在自体は関西小劇場に足を踏み入れた時から存じており、最初に拝見したのはまだ僕が劇団所属時代、2016年の第二回30GPの時だった。
当時は直接対戦することもなかったのだが、その存在感は鮮明に記憶に残っている。

そして昨年の第8回30GP第二ラウンドにて、僕とたにがわのユニット「凡タム」と「月曜劇団」の直接対決となった。
以降演出、出演の上原日呂さんなどは、たまに劇場で会うと少しだけお喋りしてもらえる程度には仲良くしていただいているのではないかと勝手に思っている。

僕自身、本公演を見るのは初めてだったので、今回は月曜劇団を2時間近く浴びた感想を書いていこうと思う。

例によって僕の個人的な感想であり、主張を異にするものや、作品自体を全く否定する意図はないのでご承知いただきたい。


破壊と混沌の使者:西川さやか

西川さんが書いた作品は、いわゆる物語的なセオリーとか、緻密に計算されたカタルシスや盛り上がりがあるタイプのものとは対極にある世界にみえる。

かといって静かな、抑揚の抑えられたタイプの会話劇とも違う。

第9回の30GPノミネート作品『よすがらひすがら』と今回の本公演の2作品を直近でみて、やはりこの言葉が一番しっくりくる。

【混沌】だ。

ただしこれは単に滅茶苦茶である、という意味ではない。
【無秩序】とも違う

混沌の意味を引くと「区別が立たず物事が入り混じっている状態」とある。
まさしくこの通りの印象だ。

つまりひとつひとつのシーンや意味合い、モチーフやメッセージはなんとなくわかるのだが、それが「区別なく入り混じっている状態」というのが、月曜劇団作品を観て僕が受ける一番強い印象だ。

逆に言っていることそれ自体は全く難しくないのに、全体を通してこんなにも未知の世界に見えるという謎の関数こそが、西川さやかさんの持つ大きな作家性なのではなだろうか。

そこには確かにメッセージがあり、人間性があり、リズムがあり、サビがある。しかしそれらが僕らの聞いたことのないリズム、知らないタイミング、予想外の構成と異常なテンションで繰り出されるため、観ている側の思考を良くも悪くも置き去りにしていく。
理解できたつもりになったそばから大声で「それはそうと‼︎」とかき消されていく。

観劇後の余韻として
悪く言えば『言いたいことはなんとなくわかるがめちゃくちゃ説明が下手くそな人の話を聞いた後のような疲労感』

良く言えば『創作料理屋に行き、いろんなものがミックスされた料理を食べ、何が美味しいのかさっぱり説明ができないのだが、店の雰囲気も含めてもう数日後にもう一度行きたくなるような中毒感』を感じる。

創作料理の例で言うならば、その混沌のレシピを描き出すのが西川さんであるならば、それをひとつの料理としてまとめ上げているのは間違いなく上原さんだろう。

世界を繋ぎ止める上原比呂

料理というのは、個人で楽しむ分にはいくらでも滅茶苦茶にして構わないと思っている。(もちろん健康には気を使った方が良い)
だがお店で、お金を取って料理を出す場合には、ある程度の納得感を求められる。

西川さんのレシピを、その根本をできるだけ崩さず、しかし観客に届くよう味をまとめ上げているのが上原さんの演出だと感じる。

実際稽古などで何を捨て、何を活かしているのかを見ていないので、どこまで上原さんが手を加えているのかは想像でしかないが、本編中にもあった月曜劇団二人だけのアドリブのような掛け合い「地獄しりとり」のシーンが、そのままおふたりの関係性を象徴しているように見える。

よく漫才でも、ツッコミはボケとお客さんを繋ぐ常識人の役割などと言われるが『よすがらひすがら』にしても『生ハムの原木』にしても、上原さんの役割は大半そこに注がれていることが多い。
つまり西川さんの世界と、観客との世界を繋ぎ止めるための役割だ。

これによって僕らは、実は大変”安心”して西川さんの世界に浸れることができるようになっているのでは、と想像する。

「区別が立たず物事が入り混じっている状態」の世界をあの大きな体でムンズとつかみ、この世界に繋ぎ止めている男、それが上原比呂氏なのではないだろうか。

サファリパークの鹿のターン

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