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無用の用に酔う夜
演劇を観た。
「会話劇、というと、どうにも敷居が高いイメージがあるよね。』
今回見た演劇の当日パンフレットに書かれていた、脚色・演出であるオダタクミさんの言葉だ。
個人的にはそんな風に考えたことがなかったので、改めてその辺りにも思考を巡らせてみたりしたが、その辺りは本編の話からすこし逸れるので、最後のまとめにでも書くとする。
タクミさんはパンフレットの中で、この敷居が高いと思われている「会話劇」の入り口として、できるだけ「観易くしようと心掛けている」と書いている。
「無粋かもしれないが、理解されないよりはずっといい。とっかかりとして、という立ち位置だと思ってくれていい」とも。
なるほど、しかしその立ち位置に対して今回の「熱帯夜」という作品は、それこそなかなか「敷居のレベルがかなり高い会話劇」の部類ではなかったろうか。
この作品を観易く、或いは理解してもらうために、どういった脚色や工夫がなされたのか。
それが今回の”カラ/フル版”熱帯夜の見どころであるのは間違いない。
というわけで、今回は先日心斎橋のウイングフィールドで上演された
カラ/フルvol.9「熱帯夜」
を観劇した感想を書いていこうと思う。
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例によってあくまで個人的な感想であり、これとは違う観点や感想を否定するものではないので、ご承知おきいただきたい。
前提状態
前述したオダタクミさんは、共演こそしたことはないものの、縁あって知り合い、最近はなかったがたまにボドゲで遊んだり、凡タムの作品を観てくださったり、凡タムの相方であるたにがわさきがよくカラ/フルの作品に出演していることもあって、僕もカラ/フルの作品をちょくちょく観に行ったりしていた。
カラ/フルではタクミさん自身が脚本を手がけることもあるが、既成戯曲の上演にも積極的な印象だし、普段作る作品からしても「会話劇」自体にはかなりこだわりがある人だと思う。
僕自身、カラ/フルの30分の短編やオムニバス公演は観たことがあったが、長編の本公演を観るのは今回が初めてとなった。
また、役者の面では先ほど挙げた相方のたにがわの出演もあるし、また、鎌田恵弥、山田百合香も過去に凡タムの作品に出演してもらったことがある。
当時はたにがわも含む同年代たちばかりで、拙いながらも楽しい座組になったのを覚えている。
他、山尾匠さんはMEHEM出演時に舞台美術を担当されており、少しだけお話しさせてもらったことがある。役者としての山尾さんを観るのは今回が初めてとなった。
水木たねさんや谷屋俊輔さんは、関西小劇場界隈にいれば一度は目にしたことがある名前で、おそらく僕もどこかの作品で拝見しているはずだが、お二人があまりに多くの場所で活躍されているため、コレ!といった作品を上げることができない。
水木さんは実はガンチャン主催の『演劇×紙芝居レボリューション』というイベントでニアミスしている。僕も水木さんも参加者だったが、上演日程が違い、お会いすることはできなかった。
その他の俳優さんは個人的なお付き合いはなく、不勉強ながら前提知識として挙げられるほどのものは持ち合わせていなかったが、後述するがどのキャスティングもバッチリとハマっていて、この作品における悪い意味の違和感を一切抱かせない見事な演技をされていた。
キャスティングでいうと今回は2チームのスイッチキャスト制で、役者は変わらないが、2チームの中で演じる役が変わるというシステムをとっている。僕は今回その中の「夜」チームを観劇した。
水木たねさんが「藤原さんの奥さん」役を演じている側だ。
当然「熱」チームにはそちらの温度感や違う魅力があると思うが、今回は「夜」チームに限った感想という形になるのでご容赦いただきたい。
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戯曲の魅力
まず今回の深津篤史氏の戯曲「熱帯夜」に関して、実は同作家の「うちやまつり」という戯曲の前日譚にあたる、というのは芝居を観た方は既にご存知の方も多いかと思う。
「熱帯夜」だけでも十分楽しめる戯曲だと思ったが、タクミさんの脚色箇所が知りたくて、観劇後に劇場で残り2冊しかなかった戯曲を購入した。
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深津篤史氏に関しては詳しい識者が他にたくさんいらっしゃると思うのでそちらの解説はお任せする。
それこそ僕が購入した戯曲集末尾の内田洋一さんの解説などはとても素敵であったので、ぜひそちらを読んでいただきたい。
(因みに深津さんの地元芦屋市は僕の地元である西宮市の隣で、桃園会が旗揚げされた1992年は僕の生まれ年である、くらいのなけなしのトピックだけ申し訳程度に添えておく)
浅い感想
ひとまず表層的なことでいうと、要所要所のセリフの「詩的」なニュアンスはとても特徴的だと思った。
現代的な言い回しの短いラリーもあるにはあるが、ところどころでわざともったいつけたような表現や、かと思えば観客を置いてけぼりにするような比喩や飛躍も挟まってくる。
事件の真相やキャラクターの真意のようなものが見えそうなところでフッと煙に巻かれる感覚など、まさになんというか、一般的に「会話劇」と聞いて連想されるような「会話劇っぽさ」というのが十全詰め込まれているような
戯曲だった。
物語について
そして肝心の「熱帯夜」のストーリーに関して、僕が抱いた第一印象は、、
「思ってたんと違う!!」だ。
というのは、フライヤーのあらすじを読む限りでは、とある団地の中で起きた事件を皮切りに、団地にいるはずの「まとも」な住人たちが疑心暗鬼で徐々におかしくなっていく物語だと想像していたのだ。
しかし蓋を開けてみると、そもそもこの物語に登場する人物に、いわゆる「まともな人間」が一人もいなかった。
つまり「まともな人間がおかしくなっていく」というより「そもそもまともな人間などひとりもおらず、とあるきっかけによってその本質が洪水のように溢れ出して止められなくなっていく」というような印象だった。
言葉を選ばず言ってしまえば登場人物みんな頭がおかしいのである。
流石にそれは言い過ぎとしても、後でよくよく考えてみると「いやこんな団地ねーだろ」と思ってしまうくらい全員が全員、怖いし、変なのだ。(続く「うちやまつり」にて明らかになる団地のその後と照らし合わせると、よりその面々の底知れなさを感じることができる。)
そんな人たちが団地の夏祭りを舞台に、それぞれが腹に一物抱えながら探り合いのバトルロイヤルを繰り広げるという話だったもんで(※個人の感想です)いい意味で先入観がひっくり返されたし、個人的にはそれによって冒頭からグイグイと引き込まれていった。
そして作品を見終わってみるとふと思うのである。
確かにこの作品には(物語的な必然性もあるだろうが)「まとも」な人間は一人もいなかった(少なくとも僕はそう感じた)し、とても現実感のある時代背景や舞台設定に対して、あの団地の住人たちは、その台詞回しの「演劇感」もあってかやはり異常な人たちに見えた。
しかし本当にそうだろうか。
いや、寧ろ、僕が今「まとも」であるという証明ができるだろうか。
そもそも「まとも」なんてのは群れが群れとしての均衡を保つために生み出し強要している共通認識に過ぎないのではないだろうか。
この世には僕も含め、「まとも」な人間などおらず、そもそも「まとも」の定義は群れによって変化するものであり、僕たちは群れとして生きるためにそれぞれのコミュニティにあるそれぞれの「まとも」に準じているだけなのではないだろうか。
そう考えると途端、あの団地の住人たちは、決して単なる物語的な異常者ではなく、
「真夏の暑さによって「まとも」という皮を脱ぎ捨てざるを得なかった、汗だくの本性をそれでも必死に隠して群れであろうとする人たち」
つまり現実の僕たちそのものの姿のようにみえてくるのだ。
物語内で、とある事件や登場人物の関係性は、あくまで輪郭が朧げに見えるところまでしか明かされない。明確にセリフとして発せられた事実めいたことさえ、そもそもその言を吐いた人間自体に信頼を置けない構造になっている。つまり僕らはこの物語を見て、実はほとんど何の真実も真意も確定することができない。
僕らは普段無意識に、物語のある作品にはある種のメッセージ性や結末のようなものを求めてしまう。しかしこの「熱帯夜」はそれを容易に与えてはくれない。
そしてそれは実際、僕らが現実に孕んでいる社会や人間との関係の実態そのもののような気がするのだ。
こんなふうにすっかり考え込んでいる時点で、そしてタクミさんの狙い通り、僕は今回の戯曲「熱帯夜」の戯曲の魅力に関してはバッチリ楽しませてもらっている。
この時点でこの演劇を観て良かったと思うし、まんまとタクミさんの手のひらの上なのが少し悔しくもある。
脚色と演出
ではその魅力十分な戯曲を、今回タクミさんが如何に脚色し、演出したのか。
僕は桃園会の皆様が演じられた所謂「本家」のバージョンを見れていないので残念ながらそれと比べることはできないが、戯曲集を購入して僕が読み取れた脚色部分が大きく二つあるのでそれを取り上げようと思う。
冒頭のシーン
一つは冒頭の正月のシーンだ。
今回見たカラ/フル版では、実は冒頭のシーンは「熱帯夜」にはなく、その後日譚である「うちやまつり」の冒頭シーンを採用し、そこから時を遡って「熱帯夜」本編に入っていくという作りになっている。
ここに僕はタクミさんの「理解しやすくする」ための脚色を感じた。
つまり元の「熱帯夜」では、単純に時系列順に物語が進んでいくので、中盤までは大きな異変や、本作の魅力である住人の裏に隠されたエグ味はあまり表に出てこない。
しかし冒頭に”その後の日常”を持ってくることで、「本編の裏で起こっていた何か禍々しいことの残穢」と「熱帯夜の出来事を経た団地の姿」を見せられる。
その為、おそらく「熱帯夜」だけであれば、住人達の”変さ”に気づいていくのは中盤以降に徐々にといった展開になりそうなところを、この脚色によって観客は初めからある種の不穏な空気を感じながら見ることができる。
つまり観客からすると、キャラクターのちょっとした表情やセリフの機微、関係性などに、つい違和感を見つけようと”集中”してしまう構成になっているのだ。
これは今回の戯曲の「真相、真意の朧げさ」に対して、タクミさんが掲げる「理解を助ける」という面からの”とっつきやすさ”という狙いでいくと、大いに貢献している脚色だったと思う。
中盤の歌唱シーン
もう一つは中盤に挟まる弾き語りのシーンだ。
ここでは”男”役の杉本民名さんが、めちゃんこ上手いギターと素敵な歌声でオリジナル曲を披露する。
とにかくこの歌自体はとても素敵で、役者も含め、観客もすっかり聴き入ってしまったシーンではある。
しかしここは個人的にはあまりうまくいっていないように感じた。
というのも戯曲の方ではこの”男”、「カラオケの機械」を持ってきて歌うのだ。
あくまでも僕の主観になるが、「カラオケ」で歌うのと「ギターで弾き語り」をするのとではかなりニュアンスが変わってくる。
つまり前者であれば「団地の夏祭りでの安い出し物感」が強調されるが、後者であればかなり歌自体に意味が出てしまい、さらに物語上でいうところの「他所者感」が強くなってしまうように感じた。
さらに戯曲の方では、「男、歌い続ける」のト書きの後に「前田」という住人がダンボールを開ける、とある。そしてその後話題はダンボールの中身の話に移るのだが(ここは桃園会さんの方ではどう演出されているかはわからないが)僕が戯曲を読んだ印象だと、
「男がカラオケで歌い続ける裏で、前田は特に歌には興味を示さず、ふと気になったダンボールをあけ、話題が移っていく。」
という流れに感じられた。
これは男が「カラオケ」で歌い、そしてなんとなく聞き流されてもいいようなレベルの歌だからこそ、登場人物の中に「歌に興味を持つ人」と「そうでない人」が生まれ、前田が動ける動機につながるのではないかと読み取った。
対して今回脚色されたバージョンだと
「男は弾き語りでしかもめちゃくちゃうまい」し「楽曲もオリジナルで歌詞にメッセージ性がありそう」なため、男の歌に意味が出過ぎてしまい、観客のフォーカスはすっかり男に向いてしまう。
その中で前田も曲に聴き入ってしまっているように見えたので、曲が終わった直後に、急に前田がダンボールを開けてしまうのがとても唐突に感じられてしまったのだ。
実際にはこの時、前田役の鎌田恵弥は事前の芝居、つまり曲の途中でダンボールに興味が移る芝居をしていたのかも知れないが、やはり僕自身も素敵な楽曲とそれを演奏する杉本さんに目を奪われているため、その芝居に気づくのは難しかったと思う。なのでどちらにしろ、楽曲終わりの前田の行動は唐突で、その行動は「素敵な楽曲を披露してもらったのに感想の一つも言わず別の興味に動いてしまう前田の異常性(少なくともそれまでのシーンで、前田が一番、所謂観客寄りのキャラクターであるのに)」に見えてしまうし、そうでなければ単純に段取り都合的な動きに見えてしまう。
つまりこれに関しては、このシーンの楽曲のクオリティを高くしてしまったがために、シーン全体の流れが歪になってしまったように感じた。
もし自然な流れにするのであれば、「楽曲の終わりにもう一拍、何か感想などを言い合ったり、空気が落ち着くまで展開してからダンボールへ」という流れになりそうだが、既成戯曲かつ台詞回し自体に大きな変更を加えない今回のタクミさんのスタイルであればその展開を盛り込むのは難しかったのだろう。
以上二点が、一度の観劇と観賞後戯曲を読んで僕が観てとれた脚色部分だった。
赤ちゃんの泣き声
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