#24 学校行事の「適正値」
学校行事に対する期待値は人それぞれである。そして学校行事についての議論は、議論の土台がないままに期待値の差による意見の言い合いになり、結果として期待値が高い方の言い分が通る。それは学校行事の過多をもたらし、教員の長時間労働の原因の一つになっている。ここでは、学校行事を制度から整理し、その適正値を探ってみたい。
学校行事とは何か
学校行事には、始業式や卒業式などの儀式的行事、学習発表会や文化祭などの文化的行事、身体測定、避難訓練などの健康安全・体育的行事、遠足や修学旅行などの旅行・集団宿泊的行事、ボランティア活動やプール清掃などを行う勤労生産・奉仕的行事などがある。
例えば、代表的な学校行事である運動会は、健康安全・体育的行事の中に位置づけられており、その目標は次のように示されている。
これは「運動会を必ずやらなければならない」というものではなく、目標に沿っていれば「陸上競技記録会」でも「全校リレー大会」でもよい。ちなみに健康安全・体育的行事の中には避難訓練も含まれている。こちらの方はもしやらなかったら、事故で子どもが被害にあった時に責任を問われかねない。同様に健康安全・体育的行事に含まれる身体測定や健康診断は法で定められた「マスト」の学校行事である。
学校行事にかける時間
知り合いの教員に頼んで、彼が担任した6年生の年間授業時数に関するデータを見せてもらった。このデータは学校で集約されて、教育委員会に報告されたものである。彼の教室では、学校行事は年間55コマ(1コマは45分の単位授業時間)という報告がされていた。ちなみに、標準的な年間授業時数は、国語・算数が175コマ、社会科・理科が105コマ、学級活動や道徳が年間35コマであり、どの学校でもおおむねこの標準を上回る報告がされている。ただ、学校行事にはこの標準時数が設定されていない。
実は、この「55コマ」という報告数には裏がある。教育委員会に提出されたのは最終的な数値のみだが、数値を算出する原簿に実際の運用が記録してあった。例えば、運動会は行事としては12コマの扱い(本番が6コマ、全体練習と予行が6コマ)だったが、実際には6年生は応援練習、競技の練習などで12コマ以外に23コマを使っていた。これら23コマは行事としてではなく、応援で声を出したから国語、開会式で歌を歌ったから音楽、応援グッズを作ったから図工、というようにかなり弾力的に運用されていた。つまり実際には表向きの12コマと裏の23コマ合わせて35コマに上る。これは年間の道徳の授業時数と同じである。その他にも学習発表会には45コマ(処理上は行事9コマ)、卒業式は25コマ(処理上は行事5コマ)というように、実際にカウントされている数倍の準備のためのコマがあった。年間にすると55コマの行事に対して、実に86コマの準備コマを要していた。行事等と準備を合わせて約140コマ。これは年間の社会や理科の時間をはるかに上回る。
これらのオーバーしたコマ数は担任の裁量で総合的な学習の時間、学級活動、国語、音楽、図工などを行ったことにして処理されていたが、中には数合わせのためにどう考えても行事の準備とは思えない理科などの教科で振り替えられているものもあった。実際の学校現場ではこのような「柔軟な対応」は珍しくない。僕も経験があるが、正直に書いてしまうと管理職から指導があるので、柔軟にならざるを得ないのだ。
また本来、教科等の学習に充てるはずだった時間を削減しているので、学期末に進度が追いつかないことになる。そして、何とか指導の内容を終わらせようとする「やっつけ授業」が行われることになる。教員の負担も大きいが、特に被害を受けるのは、学力が十分ではない子どもたちである。裏カウントの86コマは本来、子どもたちの学力補償に使うのが学校の役割のはずである。
行事で輝く子ども
このような歪んだ学校運営が行われるのは、学校内部に強力な行事推進派がいるからだ(特に管理職に多い)。彼らの言い分は「行事でしか輝けない子がいる」というものだ。つまり、授業では力を発揮しづらいが、運動会の徒競走で活躍したり、学習発表会で他の子と見劣りしない姿を見せたりというものである。僕はこの考え方には賛成しかねる。なぜなら、学校の中には、勉強も運動も苦手でどの分野でも力を発揮しづらい子がいるからだ。学校の中でたった一人でも自尊心を傷つけることになるのならそういうとりくみは見直した方が良い。光り輝く部分を作るということは、影を作ることでもある。教員が輝く部分だけに目を向け、子どもたちの自尊心に鈍感になっている実態があることはとても残念だ。
持論だが、学校教育の間に子どもたちを無理に輝かせる必要はない。社会に出てから輝く(自己実現できる)ように育てるのが学校だ。
思い出づくりとしての行事
「思い出を残してやりたい」というのも行事が過多になる理由の一つである。これは学校内部からも一定程度の圧力がある上に、保護者からの意見としても多い。
2019年3月、コロナで一斉休校となった時、その最大の関心が「卒業式ができなくて子どもたちがかわいそうだ」というものだった。卒業式ができないことによって進学できないのであれば大いにかわいそうだが、進学には何ら差し支えがないのでドライに考えれば騒ぐほどのことではない。あの議論から分かるのは、学校は「思い出を作る場所」ということに対する期待が恐ろしいまでに肥大化しているという事実である。
ちなみに儀式的行事の目標は「学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと」である。思い出はあくまで「副産物」であり、目的ではない。
令和3年8月27日に行われた、萩生田文科大臣の定例記者会見のことである。この記者会見で日本中の学校にざわめきをもたらしたのは「幼稚園、小学校、中学校等に、最大約80万回分の抗原簡易キットの配布を行う」という大臣の発言で、「教職員に医療行為である抗原検査をしろというのか」と声が上がった。僕はこの時の会見でまったく別の部分に反応していた。部活動や修学旅行を中止すべきではないかという記者の質問への答弁の中の言葉である。
文科大臣が修学旅行について「思い出に残る学修機会」と述べたことに僕は大変な違和感を感じる。学習指導要領における修学旅行の位置づけは「旅行・集団宿泊的行事」であり、その目的は「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」である。その結果として思い出ができることは大いにあってよいと思うが、思い出をつくることをもって行う理由とするのは文科大臣の発言としてはふさわしくないはずだ。しかし、「行事=思い出」という認識が一般的になってしまった今、違和感を感じる人も皆無であろう。
学校行事の「適正値」
先ほど、ある6年生の教室での年間行事時数を55コマと述べたが、文部科学省の平成30年度の調査では年間53.5コマ平均という結果が出ている。
文部科学省は学校行事の標準コマ数を示していないためにこれらの時間が大きく膨らんでいるが、学級活動や道徳が年間35コマという設定の中では、学校行事も35コマ程度が妥当であろうと僕は考える。
現状よりも20コマ程度の削減は小さくないハレーションを生むだろう。「修学旅行で18コマを使うと運動会の6コマは確保できない」というような事態が発生するからだ。これまでの学校現場では「修学旅行の18コマも運動会の6コマもやらせてやりたいから合わせて24コマを実施しよう」という判断になっていた。しかし、教員の勤務時間に上限が定められた今、青天井は許されない。小中学校共に行事にかかわる労働時間は月8時間40分程度である(「2016年度教員勤務実態調査」から算出)。実際には行事実施に伴う、会議や担当者の書類作成などの時間も別にあり、実際は月10時間を上回るだろう。マストではない学校行事の縮減は必須である。多くの教員が月45時間以上の時間外労働をしている中では、年間35コマでも多いくらいだ。
そして、運動会や修学旅行、卒業式など「子どもが楽しみにしている」「思い出に残したい」という思いが強い行事にかける時間は、コマ数の上限の中で、保護者や子どもたちの意向も聞きながら設定するような運営が必要だ。さらに教科をつぶして行事の準備をするような「柔軟な運用」もキッパリと止める必要があるだろう。
行事の簡素化・コマ数縮減を行えば、教員の労働時間が縮減され、勉強でつまずいている子どもの支援の時間も確保できる。
コロナ禍で学校行事が見直されている今、コロナ後の行事をどのようにするのかがしっかりと議論されなければならない。学校行事をコロナ前に戻すことは、学校のブラック化を意味する。なり手不足の問題が深刻な今、自殺行為である。