#18 学校は何を教えるところか
ある小学校の校長が、コロナ禍の感染予防のために学校行事が軒並みできなくなったと保護者に説明した時のことである。PTA役員が校長にポツリと言ったという。
「学校って何を教えるところなんでしょうね」
つまり行事がなくなって学校の存在意義はあるのかという問いかけである。
その校長は、言葉に詰まり、何も言えなかったと言う。
僕は、そのエピソードを聞いて、少々ショックを受けた。この校長は、学校が何を教えるかも整理できないまま学校運営をしているのか。
何度も言うように、「学校は何を教えるところか」という極めて基本的なことさえ、僕たちは共通理解ができていない。
「教科を教えるところだ」
「人とのかかわりを学ぶところだ」
「いや勉強ではなく人間性を育てるところだ」
というレベルですでに噛み合っていない。
日本ではこのように議論の土台が成立しているという「幻想」のもとに議論が進むことがよくある。
「学校は何を教えるところか」という問いに対する僕の答えは極めてシンプルだ。
それは、「学習指導要領に示された内容を教える」ということだ。こう言うと「勉強を教えていればいいということか」と反発を受けがちであるが、学習指導要領が目指す姿は、おそらく一般の人が思っているものとは違っている。もっと言えば教育関係者の中にも知らない人は多い。
例えば、学習指導要領に示された小学校の国語科の目標は次の通りである。
「日常生活」という言葉が出てくるように国語科の目標は言葉を通じて豊かに生きるためのものだ。学習指導要領では、時間割に示された国語、算数、道徳などの各教科・領域それぞれに目標が定められており、どれも子どもたちが日常生活を豊かに送れるようになることをねらいとしている。
なぜ校長はPTA役員に「学校ではそれぞれの教科の学習を通してこんな力をつけているのです」「行事がなくても子どもたちに大切な力をつけています」と言わなかったのか。
そして、学習指導要領は、さらに上位の目標である「学校教育の目標」(学校教育法21条)をもとに作られている。そこには「学校は何を教えるところか」が整理して示されている。
学校教育の目標をこのように国が決めてしまうことそのものの是非はここでは問題にしない。個人的には規定が強すぎると思うが、制度として決まったものには従うというのが僕のスタンスだ。
学校教育法のさらに上位の目標は、教育基本法に示されている。
この「人格の完成」は学校教育だけで目指すものではなく、幼児教育から始まる生涯学習の中で、あらゆる場所、あらゆる機会に育成していくものである。それは、教育基本法の中で「義務教育」「学校教育」「家庭教育」「幼児期の教育」「社会教育」というようにカテゴリー分けされ、次の第13条でこれらの相互の連携教育が必要であると位置づけられる。
ある教育長は、「人格の完成」のために学校は行事や部活動を積極的にやり全人的な教育を目指さなければいけないと言っていたが教育基本法を誤解している。本来は、学校以外の様々な機会、様々な場所で子どもたちを育てていくことが教育基本法の目指すあり方だ。
そして、学校教育が目指すゴールは教育基本法の「平和で民主的な国家及び社会の形成者」に集約されると僕は解釈している・もちろん、それは決して国家主義的な意味ではなく、「誰もが幸せに生きられる社会」と「そんな社会をつくることができる人」を目指し、結果として「誰もが幸せに生きること」が最終目標である。自分だけが幸せになっても「誰もが幸せに生きられる社会」にはならないことがこのゴールの難しさだ。
本当は学習指導要領どおりに子どもたちに教育をすすめていけば、この上位目標に到達する「はず」である。もちろん、学習指導要領は完璧ではないどころか、上位目標と矛盾する要素をもっていることも確かである。教える内容も膨大である。
しかも、学校教育の実情として、義務教育の出口にある高校入試に標準を合わせる意識が強い。そのために大量のテストを行い、高い点数を取ることをモチベーションに子どもたちを勉強するように追いこもうとする。「高校入試」という関所を突破すれば、あとは本人の努力次第で、幸せを獲得できるはずだという「シナリオ」が想定されている。しかし、結果として日本人の幸福度は世界の中では低い。シナリオは破綻している。自分だけが幸せになろうとする社会の延長線上に社会全体の幸せは存在しないからだ。
今必要なのは、「誰もが幸せに生きられる社会」と日々の授業の一貫性を見出していくことだと考える。まずは学習指導要領に示された豊かな日常生活を送るための力を育んでいくことが学校教育の中心になればいいと思う。
もっと言えば、僕は義務教育ではテストはやらなくてよいと考えている。通知表も不要だと考えている。校則も最低限でよいし、黒板の上に掲げられた学級目標も不要だと思う。授業を受けたくないという子がいればその意志は尊重されるべきだと思う。そもそも、学習指導要領には「学力」という言葉は一つも出てこないのだ。
「誰もが幸せに生きられる社会」をゴールとして、未来を生きる子どもたちに豊かな学びをもたらすことが教員の使命であり、そこにこそ教員としての専門性が発揮される学校になってほしいと考えている。逆にそれがうまくいけば、テストも校則も必要なくなるし、子どもたちは学校で授業を受けることに魅力を感じ始めるだろう。
難しいことは何もない。制度どおりにやればいいだけのことだ。
楡周平さんの書いた「ラストワンマイル」という小説がある。ある運輸会社が強力なベンチャー通販会社に買い叩かれようとしながらも、「ラストワンマイル」(最後に物をお客さんに届ける力)は自分たちにあることを認識し、不当な要求をはねつけるという話だ。
同じように、子どもたちへの教育の「ラストワンマイル」を握るのは教員だ。「学問の自由」が保障する教員の授業裁量権は教員にとっての最大の権利だと僕は思う。
誰もが幸せに生きられる社会への扉の鍵は教員がもっているのだ。
※執筆中の書籍の原稿の一部を引用して記事にしています。
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