#20 教員は「聖職者」なのか
※この記事は書籍からの引用です。
①法律上の位置づけ
学校の論議を噛み合わなくさせる要因の一つに、教員は「聖職者」か「労働者」かという問題がある。「聖職者」論に基づけば「子どものために何時間でも働け」「教員はお金のことは言うな」、つまり無償労働に文句を言うなという主張が生まれる。「労働者」論に基づけば「教員の働く時間にも上限はある」「働いた分の賃金を支払え」となる。
また、「聖職者」として求められているのは、給与面のことだけではない。「人間としてお手本として生きる」「子どものためにはすべてを投げ打っても力を尽くす」という無言の圧力が発生している。
果たして教員は「聖職」なのだろうか。教員を「聖職」と位置づける法律はあるのか。学校教育法には次のように示されている。
「自己の崇高な使命を深く自覚し」とある。「聖職」とは言わないまでも、他の職よりも厳格なモラルが求められているように思える。
実際、一般の公務員よりも厳罰となっている判例がある。大分県の教員が、生徒の氏名等が保存されていた光磁気ディスクを紛失し、さらに同一日に二回の酒気帯び運転を行ったことによって懲戒免職となった。裁判所は「少なくとも教員については、児童生徒と直接触れ合い、これを教育・指導する立場にあるから、とりわけ高いモラルと法及び社会規範遵守の姿勢が強く求められるものというべき」(福岡高等裁判所判決平成18年11月9日)と判断した。モラルの面では一定程度、「聖職者」としての意識が求められることは確かである。ただこれは給料や労働時間に文句を言わず子どものために働くことを求めるものではない。
教育公務員特例法でも教員は特有の位置づけをされている。第1条には次のように示されている。
ここでは、子どもたちへの教育を充実させるため研修を受ける権利があったり、影響力の強い立場にあることから政治的行為に制限があったりと、地方公務員と扱いが若干変わる部分に特例を定めているだけで、労働時間や給与について「聖職だから」という扱いはしていない。
あえて教員聖職者論を制度として確立した法律を挙げるとすれば、それは給特法である。給特法によって時間外勤務手当は支払われない制度になっており、勤務時間内は「仕事」、勤務時間外は「ボランティア」という特殊な働き方になっている。ただ、給特法自体は聖職者論に基づいたものではなく、教員の業務の特殊性を根拠にしたものである。給特法と教員聖職者論の親和性は極めて高いが、制度上は別物である。
つまり全体を見回してみても、制度上は聖職という位置づけはどこにも「ない」のである。
②教員聖職者論が起こる時
教員聖職論は、普段は眠っているが、何かの問題が起こると、その是非の判断規準となる。
●早期退職事件
平成25年、退職金減額を避けようと、全国で年度末に教員が駆け込み退職をする問題が発生し、大きな議論を呼んだ。国家公務員の退職金が民間に合わせ約15%減額されることになったのに伴い、都道府県でも地方公務員に同様の措置が取られることになった。一人当たり平均150万円ほどの減額である。これを回避する方法は、この措置が施行される1〜3月(都道府県によって異なる)前に退職することだ。実際にクラス担任であっても、退職を選ぶ教員が全国に現れた。担任が退職した教室では、代替の講師が残りの数ヶ月を担任することになった。退職した担任が、そのまま講師としてそのクラスを引き続き担任するケースもあった。
もし都道府県がこの施行を4月まで遅らせれば、このような問題は発生しなかったし、実際に4月1日から施行した県も半数近くあった。
下村博文文部科学大臣(当時)は記者会見で「責任ある立場の先生は、最後まで誇りを持って仕事を全うしてもらいたい。許されないことだ」と語気を強めた。全国の知事の中にも「退職金ということで、生徒たちを置き去りにし、ポイと辞めてしまうというのはやりきれない。生徒たちがかわいそうだ」(神奈川県黒岩祐治知事)、「いささか不快。無責任のそしりを受けてもやむをえない」(埼玉県上田清司知事)と批判した人がいたことが当時のネットニュースから伺える。
当時の産経ニュースには「1月末までに埼玉県に寄せられた県民からの意見126件のうち、教員批判は18件にとどまり、ほとんどが『県の責任だ』『教員を悪者にした人気取りの政策』などと県に向けられた批判だった。」とある。同様にネット上でも、教員に同情的な意見や都道府県の運用を批判する意見が多かった。
上田知事や下村文科相が「無責任」「許されない」と断罪するのは、教員聖職者論に一片の疑いもないからだろう。埼玉県に寄せられた県民から意見126件のうち、教員批判は18件だったことを考えると、世間と知事や大臣の考えには大きな溝がある。対話のベースが整わないまま議論が繰り広げられていることは明らかである。
●担任入学式欠席事件
また、2014年には、高校の新1年生の学級担任が、勤務校の入学式を欠席し、同日に行われた長男の高校入学式に出席したことが議論になった。産経ニュースから引用する。
「ヤフーの意識調査では17日正午現在、担任が「自分の子供の行事」を理由に学校行事を欠席することについて「問題だと思う」が43.6%、「問題だと思わない」が48.6%と、容認派がやや優勢。総じて、学校の教師は「聖職者」なのか「労働者」なのかが問われる展開で、ネット上では“労働者派”がやや数的には上回っている。」
「県教委には女性教諭の欠席について15日昼までに147件の意見が寄せられ、うち44%が女性教諭に理解を示し、33%が校長・教育長への批判で、女性教諭への批判は23%だった。」
「ネット上では“労働者派”がやや数的には上回っている」とあるが、意見はほぼ二分されている。また、県教委への意見でも女性への批判が23%と一定数の“聖職者派”がいることも分かる。
●若槻千夏炎上事件
2019年にタレントの若槻千夏さんの発言が「炎上」した。テレビのニュース番組「news zero」の中で、出演した現役の教員が「学校の働き方改革で18時以降は留守番電話にしている」と発言すると
というやりとりがあった。
ネット上では、若槻さんに同調する意見もあったが、「先生には授業をしっかりやってほしい」「何でもかんでも学校に求めすぎ」「こういう人がいるから学校の負担が増える」「ますます先生になる人材がいなくなる」などの批判が未明まで噴出した。
その後、批判を受けた若槻さんがネット上で謝罪するということでこの問題は収まった。若槻さんは「モンペ(モンスターペアレント)だと気づかされた」とインスタグラムで発言した。
2019年は教員の多忙が社会問題化した後であり、教員に同情的な風潮があったことも影響しているためか、現在は「教員は労働者」という側に世論は傾いているようである。
3つの事件で見られた、早期退職、有給休暇、留守番電話はどれも法的にはまったく問題がない。「教員にはこうあってほしい」という願いが発生するのは仕方がないにせよ、それが高じて教員の権利までを抑制しようという言動はもはやハラスメントに近い。教員は一人の労働者であって、「聖職者」ではないことを確認したい。
③職員室にはびこる聖職者論
世論が「労働者側」に傾いているとはいえ、問題は現場の意識にもある。保護者や地域の「悪気のない」さまざまな要求は、教員に「聖職者であれ」と求めるものではないとしても、教員の中に聖職者意識という呪縛があるために要求を断ることがなかなかできない。
また、同様のことが教員相互にもある。第Ⅰ章で示した、教員がお互いの得意分野やこだわりを業務として積み上げる相互マウンティングも、教員聖職者論をベースにしている。「どれだけ時間がかかっても負担に思っても子どもたちのためにやらなければいけない」というわけだ。そうやって、多くを抱え込めば抱え込むほど、自分たちの首を絞めて子どもたちの成長や安全を保障できなくなる。
今まず必要なのは、教育関係者が「教員は聖職者ではない」という共通理解のもとで論議をすすめることだ。特に教員自身がその意識を捨てないと学校は苦しいままだ。