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時代は令和に入った。学校教育は今大きな地殻変動を起こしつつあるのを僕は感じている。キーワードは「多様性」である。

「みんな違ってみんないい」
3年生の国語の教科書にある金子みすゞの「私と小鳥とすずと」にある一節である。
教員が子どもたちにこの言葉を引用して話をすることもよくある。その話の趣旨は、一人一人違うのだから、その違いを認め合うことが大切だということになる。残念ながら、「みんな違ってみんないい」と言いながら、学校は「服装はこう」「廊下の歩き方はこう」と画一化ばかりしようとする。

一方で、社会は急速に変わっている。大きな駅に緑のトイレができて久しい。車椅子の方も、赤ちゃんを抱えた方も使いやすい構造になっている。性的マイノリティの方も使える。緑色のトイレは学校にも設置された。学校にもその風は吹き始めた。高校入試の願書には男性、女性を書き入れる欄がなくなった。制服も性差を感じさせにくい「ジェンダーレス制服」の導入が進んでいる。多様性に適応しようと社会が動き始めている。

実は、学校に「多様性」がもちこまれたのは今が初めてではない。平成元年の学習指導要領では「個性を生かす教育の充実」が強く打ち出された。これは中曽根内閣が立ち上げた臨時教育審議会の中で生まれた方針である。昭和62年8月の第4次答申において、教育改革を進める視点として、個性重視の原則が示された。

今次教育改革において最も重要なことは、これまでの我が国の教育の根深い病弊である画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性を打破して、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自立、自己責任の原則、すなわち個性重視の原則を確立することである。

これも新自由主義政策の流れを汲むものであるが、当時の職員室でそれに対する危機感をもつ人は皆無だった。指導要領が打ち出す、子ども中心・個性重視の方針は、教員間でも時々の話題になっていた。 そして、 「どんな個性も認めるのか」ということが度々議論になった。「理科が得意」「走るのが得意」「人に優しい」というポジティブな個性を積極的に認めるのであれば、「乱暴」「自己主張が強い」「ルールに従わない」 などの個性も認めなければいけないことになるだろう。1980年代に発生した校内暴力時代から10年以上が経過していたが、学校は子どもたちの問題行動に常に頭を悩ませていた。問題をもつ子に寄り添う「カウ ンセリングマインド 」という言葉も浸透してきた頃だったが、望ましくない行動までが「個性」なのかという疑問に多くの教員が迷った。
「茶髪も個性なのか。」
「勉強しないのも個性なのか。」
 「人に迷惑をかけるのは少なくとも個性と認めてはいけないだろう。」
「勉強が苦手なことも個性にしてしまっては教員の責任放棄につながるのでは ないか。」
堂々巡りの議論の中でも、子どもたちの問題行動は容赦なく発生し、いつしか誰も「個性」ということは問題にしなくなり、学校では画一性を基盤とした 指導が継続され時には強化されていった。
現在、学校を巡る議論の中で度々顔を出すようになった 「多様性」はまさに この「個性」論争の再来である。

アメリカは服装や髪の毛の色も持ち物もかなり自由というが、授業中の私語など問題行動に対しては厳罰で対応するという。最悪の場合、公立の学校であっても退学させられる。(ただ最近はかなり緩和されているという。)
日本の学校はなぜここまで画一性を求めてしまうのか。それはここまででも繰り返し述べてきたように、限られた数の教員で、大量の学習内容をさまざまな個性をもった子どもたちに教え、かつ高校受験という義務教育の出口に備えるために、学力向上を成し遂げることが最大の使命になっているからである。
また、日本の教育の考え方は、問題行動を起こした子どもに対して、その責任を子どもに求めるのではなく、「私たちの指導が十分ではなかった」と教員自身に帰着させる傾向も強い。
そのような枠組みの中で、どうすればうまく運営ができるかと考えると、その一つの答えが「子どもたちを個性化させない」ということになる。個性化は自由化であり、自由を認めると統制が取りづらくなる。そのために、同調圧力や時には理不尽な校則を使いながら同じ型に当てはめていくことで、問題行動を抑制している。「子どもたちから個性を奪い、自由を奪い、最大40人の子どもたちを着席させ、一斉授業を行う」という非人間的な教育は、子どもたちに「問題行動を起こさずしっかり勉強してほしい」という学力保障の強い願いと使命感がもたらしたものである。言い換えれば「教育を受ける権利」を保障するために、「基本的人権」を犠牲にしたという構造である。多くの教員が心の中で「どこか人間的でない」と気づいているのだが、この多忙な学校現場で使命を遂行するためにはそれ以外の選択は思い浮かばない。

多様性への対応の難しさは発達障害の子どもたちへの対応でも分かる。例えば、AD H Dの子どもが授業中に騒いだ場合、「注意する」「叱る」を繰り返すと、本人は次第に自信をなくし投げやりになったり反抗的になったりする二次障害を引き起こす。ここでの適正解は「無視」だ。つまり、問題行動があっても相手にしないことが最適の指導となる。一方で、そうでない子が授業中に騒いだ場合は、「注意する」「叱る」が効果的な指導となる。同じ行動でも、教員の対応が違うと子どもたちは不公平感や教員に対する不信感を抱く。平等意識が強い学校文化に「多様性」をもちこむことはそう簡単ではない。

一方、社会はますます多様性を受け入れる方向に傾いている。「障害者差別解消法」「インクルーシブ」「合理的配慮」「SOGI(性的マイノリティー)」「ダイバーシティ」「個別最適化」・・・
多様性を認める概念が急速に広まっている。コロナによって今までの常識が崩れたことも、意識改革を加速させるだろう。

これからは、例えば、とても乱暴な子がいたとして、これも多様性だと受け入れるのか。
授業中、「私は国語と算数しか勉強しません」と言って他の教科はマンガを読んでいる子をそれも多様性と受け入れるのか。
服装は何でもよいのか。学校にゲームを持ってきてもよいのか。廊下を走ってもよいのか。校則はなくてもよいのか。
規律を失った教室で学級崩壊が発生し、学習が進まなかったらどうするのか。
「クラスの困った子を何とかしてほしい」と保護者が苦情を言ってきたらどう対応するか。逆に、さまざまな個性に対して、なぜ認めないのかと迫られたらどうするか。
教員自身も多様であってよいのか。「勉強は教えられるが生徒指導はムリ」「部活なら全力でやる」という教員を認めるのか。認めないというのであれば、そもそも多様性を認めていないということになるのではないか。 

やや極端な例で示したが、多様性を受け入れるということはこれらの様々な要求に耳を傾け、個人の特性に配慮しながら、着地点を決めていくという終わりのない作業だ。そして今、学校教育が多様性に向かって歩み始めるという大きな地殻変動が起こっている。その象徴が「ブラック校則」の見直しと「タブレットの導入」である。(次回に続く)

※執筆中の書籍の原稿の一部を引用して記事にしています。

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