「ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ。」
●はじめに
表題の言葉は、お笑いコンビ:オードリーの若林正恭氏が著した『社会人大学人見知り学部卒業見込』の一節。
何を隠そう、本書こそが俺にとっての“今年買ってよかった本”約25冊中第1位である。
今回は本書の、特に表題に関する話をしたい。
●ネガティブと没頭
暇な時間──旅行先のような非日常空間であっても、“心の中に生息するネガティブモンスター”に付きまとわれる著者。
それに捕まりそうになったとき対処するための“没頭できそうなこと”を、著者はひたすらノートに書き連ねたという。
何かに没頭することで時間を圧縮し、ネガティブが入る隙を与えないという目論見だ。
挙げられていた例は読書・トイレ掃除・アメフト観戦など。ジェンガや乗馬といった変わり種まであった。
本書は『イギリス名詩選』の時のように、“新たな知見を得て人生が変わった”タイプの本ではない。
(特に“ネガティブと没頭”論に関する)内容に納得し、猛烈な共感を覚えたのである。以前から抱いていた考えの裏付けが取れた。そんな確信を、俺は本書で持つことができた。
自説の補強になったからこそ、俺は本書との出逢いを重要視している。
そのため、勝手ながら“今年買ってよかった本”第1位に選ばせてもらった。
俺は“自分の機嫌は自分でとる”というポリシーを持っている。
怒りや哀しみを他人に投げ付けず、自分の中で処理したい理想論だ。
そのためには無理矢理ポジティブな方向に心を向けようとするのではなく、何らかの行為に没頭することが最適解だと常々感じていた※。
音楽を聴く、ゲームをする、散歩をする、映画を観る…。
こういった日常の延長線上にある行為は一旦置き、俺が過去に経験し、ネガティブを振り切った“変わり種の没頭体験”を振り返ってみたい。
※あくまでも今の俺自身の考えに過ぎない。今後経験したことがないレベルの不幸に見舞われ、“没頭”では処理し切れない程のネガティブさに襲われた時は…さて、どうしたものか?
●没頭① ガンプラ造り
四年前の春。
当時付き合っていた彼女と破局した直後、俺はガンプラ(“ガンダム”シリーズのプラモデル)造りを始めた。
それまで一切興味が無かったガンプラ製作。なぜ、破局後にその行為に意識が向かったのか…?今となっては、理由が全く思い出せない。
枠組みからパーツを切り取り、墨入れを施し、水転写デカールを貼り、つや消しスプレーを吹き、機体を組み上げる。
誰からの干渉も受けず、黙々とカラフルなプラスチックと対峙する。
この一連の単調作業は結構楽しく、心地良く、そして意外にも集中力を使う。
部品は細かく、作業工程はパズルを組むように複雑。片手間で造れるものじゃない。
そう、没頭だ。ガンプラは没頭しないと造れない。
「∀」「00」「AGE」「Gのレコンギスタ」…。様々な作品の機体達が、本棚の天板を埋め尽くす。
部屋に十数体のMSが配備された頃には、ネガティブな感情があったこと自体を忘れていた。
その自覚とともに、俺はガンプラ造りを辞めた。完成済みの機体の大半は、某フリマサイトで売り払った。
せっかく作った作品なのだから、もう少し手元に残しておけばよかったかな…と、少々後悔している。
●没頭② 小説を書く
仕事が思うようにいかずに悩んだ、三年前の夏。
他にも様々なきっかけが重なり、俺は小説を書き始めた。こちらも人生初体験だった。
SF。創作。空想。本音。執着。未完成。認知の歪み。棄てられないプライド…。ある日突然脳内に降ってきた物語は、そういった題材で構成されていた。
前頭葉をフル回転させ、実体験と知識を空想の糧にする。一つの物語を完結へと導くため…。俺は四ヶ月間、ひたすら執筆に没頭した。
モノ書きを趣味とする友人のアドバイスのお陰で、その小説は無事に完成した。登場人物は三人。文字数は約一万五千字。これらに費やした所要時間が、約四ヶ月。
文章慣れしている方々がこれだけ時間を掛けたなら、きっと遠大な長編作品が書けるだろう。
やはり、俺は小説家に向いていないらしい。
作品は自己満足のために書いたものなので、三〜四名の友人にしか見せていない。
noteに投稿してみようとも考えたが、未だにそのめどは立たない。
読み直すうちに気付いた矛盾と強引さを解消するアイデアが見つからないせいだ。少々センシティブな描写があるため、その点に対する批判を恐れてもいる。
一方、作品に対する思い入れと愛着を棄て切れないのも確か。顕示欲は燃えカスにならず、まだ俺の心で燻っている。
※追記
2022年末になり、改めて小説を書く習慣が生まれた。この経験は決して無駄ではなかったようだ。
●没頭③ note投稿
こちらに関しては過去の行為ではなく、現在進行形の出来事になる。
最近は良いことばかりでもないが、ネガティブな感情に陥ることもほぼない。それはきっと、noteの投稿が習慣化したから。
例えば、こちらの過去記事。
経験した出来事自体はネガティブであるのに、書いている最中はむしろ強い昂揚感に包まれていた。
思考が文章として具体化・再構築される。筆が進む。そして執筆へ没頭する。これによってアドレナリン・エンドルフィン・ドーパミン等々が脳内を駆け巡ったのかもしれない。
このような快感は、執筆を好む方々なら誰しも身に覚えがあるのではないだろうか?
大前提として、俺は没頭せずに文章を書くことが出来ない。
別のことを考えながら自然に言葉を紡げるほど、俺は器用な人間じゃない。
よって“noteの継続”は、俺にとって“没頭”と同義だ。
──他にも様々な没頭経験があるが、上記の三つ以上に取るに足らないことばかりなので一旦本稿を〆る。
ネガティブとポジティブ。どちらの感情に振れている場合でも、何かしらへの没頭は常に続けていたい。『社会人大学人見知り学部卒業見込』は、大きな力でそんな俺の背を押してくれたような気がする。