社会の当たり前をぶっ壊す。社会の責任にするだけではなく当事者が声をあげるソーシャルアクションを
どうしても、社会が受け入れてくれない、社会が生み出した、と言いがちであるが、最近、思うのが、もちろんそれは結果論であって、当事者たちが声をあげないと社会が受け入れようにも気がつかない、無視されるの常である。
くさいものには蓋をするというか、くさいものはスルーするのが行政なんだから、くさいものはくさいものとして臭いを強烈に放たないと気がついてもらえない。
すごい語弊がある言い方だが、当事者たちが声をあげて動かないと、何にもはじまらない、と、自分の活動を通して強烈に思うのです。そして、当事者たちが気がつかない、仕方ない、社会とはそういうもんだということをあきらめに近い気持ちでいる人達に気がついてもらうためにも、そのパッションはとても大事で、社会に気がついてもらうためには、まづは当事者たちに気がついてもらわないといけない。
また悲しい事件が起きました。当事者たちがそういったもんだと思い込んでしまったがゆえに結末。障害がある弟を家族が自分で面倒みなければいけない、という大きな責任を背負った兄が弟を殺し、そして、自死した事件です。親に「弟を施設にいれないで」と、その一言を忠実に守り、そして、自分の人生を犠牲にしてまで弟を守り抜いた。親はこんなこと到底望んでいない自分の限界を超えてまで弟の面倒をみてもらいたい、と思う親なんていません。当事者である兄はそして、その家族は気がついていなかった、そういったもんだ、障害がある子どもは家族がみる、負担を超えてまで押しつける当たり前。それはもちろん社会がそうさせている。それで終われば社会の責任。でも、声をあげなければ、社会が変わることはなく、永遠に社会は当たり前を押しつけてくる。
ようやく、親の会が知られる存在となり、厚労省との意見交換会も始まり、会員ひとりひとりのモチベーションも少しは上がったのかな、と感じることが多々ある。
中心の外側にいた人達が自分の問題として捉え、そして、行動を起こし始めてくれている。
私たちは社会のせいにしたくない、社会に感謝したいんです。だから国に裏切られたくはないし、どうすれば裏切られないか、共に考えてくれるのが日本だと信じています。
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