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なぜゲームを語るときは褒め言葉が多くなり、映画には辛口批評が多くなるのか
昨今、テレビゲームにまつわる文章には「ネガティブな言葉」が少なくなりました。
SNSなどを見ていても、ゲームを辛口批評する、みたいなスタンスの文章を見ることが少なくなりました。若い世代の方々の中には、「ゲームの悪口なんて、そもそもほとんど見たことがない」という方も増えているでしょう。
これは、すごくいいことです。
だって、「これ、つまらないゲームだ」と言われても、なんの参考にもならないですもんね。
ゲームは楽しむためにプレイするものです。世の中のゲームファンは「面白いゲームに出会いたいなぁ」と思っている。そんな人たちが求めているのは、「ここが面白いっ」という褒め言葉に満ちた文章なんですよ。そういう文章にたくさん出会うことこそが、自分にピッタリとソフトを見つける手助けになるのですから。
ここで、いったん映画「すずめの戸締まり」の話をします。
わたし、この映画は大傑作だと思っています。観客動員も順調なようで、一気に興行収入100億円を突破しそうな勢いになっています。「ここが凄かったよー」という評判が口コミで広がり、多くの観客が劇場に足を運んでいるのでしょう。
わたし自身も、「ここが凄かったよー」と具体的に語りたい気持ちはあるのですが、プロの物書きとして原稿料をもらうこともある立場ですし、ならば公開から間がない現時点では、ネタバレを避けるためにやめておこう、と我慢しております。
なので、ネットを見ていて、この映画に対する辛口コメントを発見するたびに、ちょっと驚かされるのです。
そこには、「駄作」「平凡」「ありきたり」みたいものから「見る価値なし」といったものまで、手厳しい意見が当たり前のようにあるからです。批評家・評論家と呼ばれる人たちの中にも、手厳しいコメントを発している人もいるようです。
それが「いい」とか「悪い」と言っているのではないですよ。
自分が楽しめなかった作品に対して、その気持ちを素直に発信するのは、なにも間違ったことではないですからね。
とはいえ前述したように、ゲームに対するコメントは、基本的には「褒め言葉で満ちている」のに対し、映画に対するコメントには、やたらと手厳しいものも多く、その差異は興味深いところだよね、という話をしております。
じつのところ、一昔前までは「ゲームの悪口が、ネット上にあふれていた時代」もありました。
2ちゃんねるの「ゲハ論争」などが有名ですね。ご存じない方のために説明しますと、これはネット掲示板の「ゲーム・ハード板」と呼ばれる場所で起きていた論争のこと。そこでは何年にもわたって、プレステの愛好者と任天堂ハード愛好者が、口汚く罵り合っていたのです。
・任天堂ハードはガキ向け。こんなの称賛するのは馬鹿
・プレステは絵が奇麗なだけ。こんなの称賛するのは馬鹿
かいつまんで言うと、そんな意見のぶつけ合いが、何年も何年も、終わることなく延々と続けられていたのです。
当時の空気を知るものとしてフォローしておきますと、本気で罵詈雑言を発し続けていたのは、全体のごく一部だったと推測されます。残りの大半は、「あえて極論をぶつけて、ネット上での遠慮なしの口喧嘩をエンタメとして楽しんでいた」だけなんじゃないかなと。
つまり、「ゲハ論争」というのは、ゲームソフトに対する悪口が、ちょっとしたエンタメとして消費されていた時代があったことを示す、貴重な歴史の1ページなのだ、と理解していただければと思うのです。
でも最近は、ゲームの辛口コメントを見かけることは少なくなりました。悪口をエンタメとして楽しむ光景も見かけなくなりました。ネット上には褒め言葉が溢れています。
どうしてなのでしょう?
そこにはいろいろな理由がありそうですが、結局のところ、ソフトの総数が爆発的に増えたからだと考えていいんじゃないかな、と思ってます。
いまは何千・何万ものソフト・アプリがある。そこで「ひとつのソフトを辛口批評する文章」があっても、そんなものは面白いソフトに出会うための手助けにならないわけです。そんな悪口を書くことにパワー使うくらいなら、膨大なソフトの中から「これ面白いっ」と称賛できるものを教えてくれよ、という話になるんですよね。
初音ミクに代表されるボカロ曲に、悪口が少ないのも同じ理由です。まあ悪口を言う人もいるだろうけど、ひとつひとつの曲の辛口コメントを書いて原稿料をもらうようなビジネスは、ほぼ成立しないわけです。数十万ものボカロ曲があるんだから、ひとつの曲の悪口なんか発信しないで、素敵な曲を紹介してくれよ! という話ですし、そもそも曲が気に入らないならお前がボカロで曲作れよ! という話になっちゃうからです。
「自分にとっての地雷は、誰かにとっての大好物」
という同人誌界隈の金言も同じことですね。これは自分にとって「許せないほど酷いと感じる」ものであっても、他の誰かにとっては「大傑作」であることは往々にしてあるよ、という意味の言葉。そこに膨大な同人誌があるのだから、自分が気に入らないからという理由で悪口を言っても誰も喜ばないし、そもそもマナー違反なんだからやめておけよ、ということになるわけです。
このことからもわかるように、発表される作品の数が膨大になると、その界隈からは悪口が減っていくんですよ。
だから、年に数百本のパッケージソフトだけが販売されていた時代には、「ゲハ論争」のような罵り合いが発生したわけです。
ソフト総数が少ないと、あるていどの有名タイトルはゲームファン全員が知っているので、「あのソフトに対し、こういう切り口で悪口を浴びせるのか。面白ぇじゃないか」と、手厳しい意見をエンタメとして楽しむことが可能になるのですね。
でも、スマホやPCゲーム市場が発達し、当時の何十倍ものソフトが登場するようになると、有名ソフトに対して辛口コメントを発信しても、「知らないソフトに対して、知らない誰かが悪口を言っている」と感じる人が多数派になるので、辛口コメントはエンタメとして成立しなくなる。
そして、楽しそうなソフトを称賛するコメントのほうが、より高く評価されるようになるわけです。こうして悪口を発信する人よりも褒め言葉を尽くした人のほうが評価されるようになり、テレビゲーム界隈から辛口批評が消えていったのだと思われます。
というわけで、今回のまとめ。
劇場映画は、公開される作品数が少ないので、いまなお「辛口コメント」がエンタメとして成立する余地がある。そういった辛口コメントを楽しむ人が一定数いるということです。かつて「ゲハ論争」を楽しむ人がたくさんいたのと同じように。
だから、極端な話、年に1000本のアニメ映画が公開されていたなら、おそらく「すずめの戸締まり」を辛口批評する人は激減したんじゃないかと、わたしは思います。
とはいえ、今後「映画はそうなるべきだ」とか「そうなるのが正しいはずだ」とか、そういった話をしているのではないですよ。膨大な作品数があるテレビゲームと、限られた作品しかない劇場映画では、こうして辛口コメントの数に差が出るのが面白いところだよな、という、今回はそんなシンプルなお話です。
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