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クジラの涙を誰も知らない。
朝、カーテンを開けると海が見える。
今日、いま、この瞬間。
あの海のどこかで、クジラが泳いでいる。
わたしは見たことはないけれど、世界にクジラがいることを知っている。
たしかに、知っているのだ。
図鑑やテレビや写真や、誰かから教えてもらったはなしのなかで、存在するクジラたち。
海の中から、キラキラと輝く水面を見上げる。
目を閉じて、その大きな体が、ゆっくりと海のなかを進んでいくさまをイメージしてみる。
でも、クジラはあまりに大きくて、うまく思い描けない。
今日も、うまく、描けない。
+
この島にクジラがやって来るようになったのは、母が亡くなった翌年からだった。
島の近くには黒潮という海流がある。
温暖化の影響で潮の流れに乗ってクジラが回遊してくるようになった、らしい。
海洋研究の人がやって来たり、町がホエールウォッチングを観光にしようとお祭り騒ぎをはじめていたけど、わたしの日常は変わらず淡々と過ぎていった。
地球が暖かくなって、島にはクジラが来た。
それだけだった。
クジラがやってくる少し前。
少しずつ暖かくなって、気の早い桜が咲き始めた頃だった。わたしは初めてお通夜や葬儀を当事者として経験した。
この島の桜は桜色ではなく白色で、オオシマザクラという名前が付いている。「最初にこの島で見つかっていれば名前が違っていたのに」って中学の理科の先生が悔しがっていたからことがなんとなく記憶に残ってしまい、名前まで覚えた花だ。わたしは凛と咲くこのオオシマザクラが好きだった。
病院から見える山が白くなり始めた頃に、母は体調を崩した。そして、そのまま眠るように息をするのをやめた。
ふしぎだった。
いつもニコニコしていた母が、そのままニコニコした顔をわたしのまぶたの裏に残したまま、いつのまにかいない。
いなくなった母のための儀式に、大人がせわしなく動き出す。
これまでだって、母に連れられて同級生の親類が亡くなったりしたときにお焼香にいったことはあった。
しかし、いざ自分がこっち側ですることになると、なんだかすべてが現実じゃないみたい。
祖父は忙しくいろんなところに電話をして、わたしも出来る限り手伝おうと思ったけれど、町のおばちゃんやおじさん(いわゆる町役のひとたち)が応援にきてからは、ほとんど何もしないでよかった。
いろんな人が島からも外からも来た。このとき初めて会った親戚もいたし、そしてもう会うこともないかもしれない人もいた。(ほんとにその後会ってない)わたしは親戚のなかでは末っ子のほうだったから、みんなわたしを知っているけれど、わたしは誰が誰だかさっぱりわからない。すべてが嘘みたいで、色が薄くて、寝起きの焦点が定まらない夢みたいで。それでも、母がいなくなった儀式の手順が粛々と進んでいく。
大きなダイニングテーブルのはじの椅子に座りながら、せわしなくしているみんなの様子をぼんやりとながめて過ごした。途中でとなりのおばあちゃんがおにぎりを持ってきてくれた。こんなときでもお腹は空く。食欲と空腹は別のいきものだと知った。
+
夜になり、お通夜がはじまる。
先生や友達からいろんな言葉をかけてもらっても、文字のかたちはわかるのに、意味が入ってこない。そんな耳の周りに空気の部屋ができたような感覚のまま、葬儀という儀式が目の前を流れていった。
そのときだ。
受験のときにちょっとだけ通った塾の講師の人がお焼香に来たそのとき、わたしの悲しみは一気に溢れた。涙が止まらなくなって、息ができなくなって、祖父に連れられて会場をでて、葬儀場のトイレにこもって涙が出てきた。
「あんな人までちゃんと来てるのは、やっぱりわたしのお母さんが死んだからなんだ」
そのときだった。
そのときにはじめて実感したんだと思う。
涙が止まらなかった。泣いて、泣いて、泣いて、もうこれ以上涙が出ないってくらい泣き切った。それから戻ると、お坊さんのお経が終わって、みんなが移動するところだった。
その後のことはあまり覚えていない。記憶にあるのは、鼻の奥がぐったりとした感覚と、嫌味なくらい晴れていたのと、じめじめした湿度の感覚が手のひらに残っていたことだけだ。
+
地球が暖かくなって、潮が変わって、
母がいなくなって。
この季節になると、思い出す。
クジラも涙を流すのだろうか。
海の中で涙を流しても誰も気がつかないのに。
水平線のうえにブローが上がる。
わたしの一部はそこまで飛んでいき、
海の中から、キラキラと輝く水面を見上げる。
流れた粒が、そのまま海の一部になって、海はクジラの悲しみに満たされて、でも誰も気がつかない。それでも涙は溢れてくるのだろうか。
今日も、うまく描けないまま。
今年も、島にはクジラが来る。
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