見出し画像

「閉じている」ことへの恐怖

今年の振り返りをしようと、
とぎれとぎれつけていた日記を、1月分から読み返していたら、
「閉じている」ことへの恐怖を感じている自分に気がついた。

たとえば、今さら誰もやっていないようなマイナーなレトロゲームを、
一人、部屋にこもってやっているとか。
(しかも、そのことを誰にも発信することなく。)

もっと怖いのは、パートナーと2人で、
家に閉じこもってオフラインの遊び、たとえばボードゲームとかをしているとき。
(ボードゲーム自体はめちゃくちゃ大好き。)

不意に、世界から隔絶されているような不安に襲われる。

あるいは、時間を浪費している、
しかもそれに他人を巻き込んでしまっていることへの、
絶望感と喪失感とやるせなさをないまぜにしたような感情。

なぜ、こんな感情に襲われるのか?

「人生を意義のあるものにしなければ」という強迫観念

だって、自分しか知らないことは、
自分が死んでしまったら何も残らない。
というか、自分が忘れてしまったら終わりだ。

だから、すくなくとも紙に書くなり、誰かと共有するなり、
自分の体験を外部化していかないと、
自分の費やした時間はすべて水泡に帰してしまう。

自分の外側に何かを残せること(あるいはそれにつながること)が、
僕は有意義だと感じるようだ。

そして僕は、人生を有意義なものにしなければいけない、
何かを為さなければならないという、
強迫観念のようなものに取り憑かれているのかもしれない。

死んだら、すべてが無になる。
ということへの恐怖が、たぶん根底にある。

「真理に近づく」という、ごく主観的な体験

そう思う一方で、
たとえ何も残らなくても、誰にも理解されなくても、
ごく主観的な体験として、世界の理に触れるということにも、
僕は人生の大きな意義を感じている。

そのことは、またいずれ書ければと思う。

今年もあと3日だけど、
一日一日、最後まで丁寧に生きていこうな。

いいなと思ったら応援しよう!

ゆさ
最後まで読んでいただきありがとうございます!