本当にあの時、頑張れなかったのかなあ
時折、自分は病気なんかじゃないのでは、と考えることがある。しかし、ぼろぼろと落とした単位たちと留年するという事実を目の前にして、どうしよもなく病気であると実感する。
でも、それも、病気なんかのせいじゃなくて、頑張れなかった自分のせいなんかじゃないかとか考える時がある。そういう時は、どうしても起こせない身体と落ち込んでいく精神を目の前にして、これもまたやっぱり病気なんだと実感する。
厄介なのは、元気な時で、元気な時はそういうつらかった状況を忘れてしまう。そして自分に問うのだ。「本当にあの時は頑張れなかったのか?」と。
私は「頑張る」は、他人と比べるものではなく、その人の中で測るものだと思う。頑張った結果がもし一定の基準に満たなくても、その人なりに頑張れていれば、それで良いと思う。
しかし、実はこの「自分なりに頑張る」というのを測るのは非常に難しい。どのくらいやれば、自分なりに頑張れていると言えるのか、どのようにすれば、頑張れていることを実感できるのか。そういうことを考えていると「頑張る」がますます分からなくなってくる。
物事を測るためには、まずは基準が必要である。「頑張る」を測るのが難しいのは、この基準を設定しづらいからかもしれない。
普段の自分の「頑張る」の基準を考えてみる。私が基準にしがちなのは、「ほどほどにできた日の自分」であるように思う。その日と同じくらいか、それ以上ができたら、「頑張れた」と言える。
そうすると、また、「ほどほど」などといった曖昧な基準に身をゆだねていることに気がつく。
「ほどほどにできた日」って具体的にどんな日だろうか。
それは、予定を予定通りにこなせた日、早起きして行動出来た日、ご飯をつくれた日、洗濯ができた日、掃除ができた日、お風呂に入って寝た日、である。全てではなくて、このうち一つでもできていれば、ほどほどにできたなあと自分は感じられる。
イメージとしては、食事+睡眠+αといった感じだろうか。
ほどほどなんだから別にしんどいことをこなせなくたっていいのだ。
具体的に私の「ほどほどにできた」を挙げたところで、もう一度、「頑張る」の基準を考えてみる。
私にとってデフォルトの状態は食事+睡眠など生きるために必要な活動をしているとき。そして「頑張る」の状態は+αの活動をしているときである。そして、この「頑張る」はデフォルトの状態が満たされないとうまく作動しない。
つまり、デフォルトの状態すら満たされていなかったあの頃は、頑張ることができなかった、またはうまく頑張れなかった、そんな状態だったと言えるのではないだろうか。
逆に言うと、デフォルトの状態が満たされているときには、+αの活動をひとつでもしてみるべきかなと思った。
元気な時は、この考えを思い出して、少しでも心を救っていこうと思う。
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