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短編小説/進化する河童
第230回 オレンジ文庫短編小説新人賞で「もう一歩の作品」に入った作品です。
同人誌『宇宙のファンタジィ』の収録作です。
【あらすじ】
陶芸家の彼と同棲するキャリアウーマンが、突如家に現れた河童像をどう売り出すかを考える、ほっこり日常系のお話です。
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家に帰り、ドアを開くと河童が鎮座していた。少し大きめの猫が座っているくらいのサイズ感で、陶芸用の粘土で作られたものだった。河童は筋肉隆々で、競泳選手のように鍛えられた肉体美で、誇らしげに座禅を組んでいる。玄関を上がった先の少し右に控え目に置いてあった河童であったが、その存在感に目が奪われ、私はしばらく我を忘れていた。
「おかえり」
と芳樹に声をかけられるまで、宇宙空間に意識が飛ばされ浮遊しているようだった。
「新作?」
現実世界に戻された私は河童を指さしながら芳樹に聞く。
「あ、うん。やっと乾いたから明日焼きに行こうと思って」
梅雨が本格化し、雨続きだった週も明けて、ここ三日ほどは真夏みたいに暑かった。粘土は乾かないと焼けないので待たなければならない。明日河童は釜に放り込まれて、薪の松などの自然釉によって渋い照りのついた焦茶色に焼かれるのだろう。
時に私は仕事が忙しくて、今芳樹が何を作っているか気にかける余裕は一ヶ月ほどなかった。今日は暫くぶりに早く帰れたと緊張した神経が緩み、お酒の一杯でもやろうと冷えたビールをコンビニで買ってきたところだった。そこで突然の河童である。
芳樹は作品に対して私の感想は求めない。好きなだけ作品を作ってほしいと、私は彼を自分の家に住まわせるようになって三年が経った。コンビニのビニール袋を下げた私を見た芳樹が「ビールじゃん」と嬉しそうに言う。
「適当に夕飯作っといたから」
芳樹がリビングに向かっていくので私は彼を追って行き、ダイニングテーブルの上にエビチリと中華サラダが作ってあるのを確認した。もっぱら彼が食事を作るばかりになって、私は生活の世話の多くを彼に頼っている。
テーブルの上にビールの缶を二つ置くと、芳樹がグラスを持って来た。私が二人分のビールをグラスに注ぐ。
「お疲れ」
椅子に座るなり、芳樹はそう言ってグラスを私に傾けた、
「ありがとう」
仕事でヘトヘトに疲れて帰宅するとご飯ができているのは控え目に言って天国だ。黄金色に輝くビールを喉に流し込み、一日の疲れを吹っ飛ばす。甘辛味のクラゲがのった中華サラダを一口食べて、またビールを飲む。ビールの泡が喉に消えゆく中、座禅を組んで瞑想する河童のシルエットが想起された。
「どうして河童になっちゃったの?」
彼の作品に口を出すことは滅多にないのだけれども、河童のインパクトが思いのほか強く、つい口から漏れた。
「寺に売れるかなと思って」
「寺?」
「神社仏閣だよ」
「それはわかってる」
「境内に河童の置物があったら味があっていいと思わない?」
「境内に」
「だんだん河童が苔むして緑になっていくんだよ」
私は坐禅を組んでいる茶色い河童が緑に侵食される姿を想像して、変なところから息を吸い込んでしまい咳込んだ。
売れるわけがない。そう思った。
「河童を持って行商するの?」
「うん、これから河童シリーズを作って売り込もうと思ってるんだ」
芳樹の純真無垢な瞳の前に、これから量産される河童に恐れ慄いた。
「前に作ってた蛙の貯金箱になる置物、すごく良かったけど」
私はダイニングテーブルの風景にすっかり馴染んでしまった蛙の置物に目を向けた。濃い緑色の釉薬で艶やかに焼かれ、パンパンに膨らんだお腹に「禁煙」と書かれてある、口を間抜けに開けた蛙の置物だ。その口はちょうど五百円玉が入るくらいの大きさで、芳樹がタバコ一箱を買うのに我慢できた時、五百円玉が貯金できるようになっている。私はよく芳樹の全財産と言って揶揄っている。貯金箱としては可愛らしく、ユーモアがあってネットで売り出せばそこそこ売れるのではと思っている。
「ミンネとかメルカリとか、むしろインスタで作家物で売ったら良いのに」
私がそういうと芳樹はため息を一つ吐いて、
「割れ物は配送で壊れるかもしれないし、クレームが来たら嫌だから」
と嫌そうに答えるばかりである。
「それに蛙なんて遊びで作ったものだし、あんな下手くそな漫画みたいなもの売れたって嬉しくねえよ」
河童は売れたら嬉しいのか。基準がわからない。私はフォローする言葉が見つからず、冷めかけのエビチリを頬張り、泡が落ち着いたビールをちびりとやる。満腹蛙の置物をダイニングテーブルの端から手繰り寄せ、なんとなく振ってみたり。ジャラジャラと小銭が擦れあう音が響いた。
「やっぱり可愛いじゃん、これ」
「おい、触るなよ」
「なんでよ」
「俺の全財産だぞ」
「いくら貯まったか見てやろうかしら」
「やめろって」
言われながら満腹蛙を逆さまにして、間抜けに開いた口元から百円玉、十円玉がボロボロと吐き出された。
「五百円玉貯金じゃなかったの?」
「五百円なんて、そう簡単に出ねえから」
「小銭貯金だね」
「貯金しようっていう気持ちを評価してもらいたいね」
私はハイハイと笑いながら手元に出した小銭たちを蛙の口に一枚ずつ戻した。芳樹は私の手元から蛙を奪って、不機嫌そうにため息を吐いた。
ピロリン。ピロリン。
スマホの通知音が連続で鳴り響く時は大抵母だ。実家で飼っている白猫の写真が週一くらいで送られてくる。実家の庭に迷い込んで、そのまま飼い猫になったミルクちゃんは全身真っ白でアイスブルーの瞳をしている。ミルクちゃんの写真は嬉しいのだけれども、十通以上の通知音が連続して鳴り響くと何か急かされているようで焦ってしまう。ミルクちゃんの写真について、可愛いね、いつもありがとうと返事を打っている中、
「今電話大丈夫?」
と母から追撃のメッセージ。リビングでYouTubeを観ている芳樹に電話の内容を聞かれないよう、寝室に移動してから母に向けて発信した。
「もしもしユリちゃん? 元気にしている?」
「仕事は忙しいけど、ぼちぼち元気にやってるよ」
母の声のトーンで、なんの用なのか大体察した。
「一緒に住んでいる芳樹さんとはどうなの?」
「どうって、仲良くやっているよ」
「もう一緒に暮らし始めて三年でしょ。そろそろ結婚とか考えないの?」
「前もその話だったけど、当面結婚は考えてないのよ。もう子供を作れる年齢でもなくなったし、今更結婚する気になんてなれないのよ」
芳樹とは四年前に市内の陶芸教室で知り合った。結婚に縁のなかった私は、仕事以外で生きがいを求め、市内のカルチャースクールを転々とし、最終的に陶芸教室に落ち着いたのであった。芳樹は陶芸教室のアルバイト講師で、私は生徒という立場だった。
「芳樹さん、今も陶芸教室のアルバイトだけなの?」
「道路工事とか、注文住宅の工事とかのアルバイトもやってるよ」
「結婚しない理由は芳樹さんが五十過ぎてもアルバイト暮らしだからなの?」
私は母の質問にイライラしながら頭を掻きむしる。
「そんなの関係ないよ。別にずっとバイト暮らしでも良いのよ。芳樹は本当は陶芸家なんだから、芳樹が作りたい作品を作れるよう、私がサポートしたいだけ。結婚したら、私が全面的に養う形になって立場が対等じゃなくなるのが怖いのよ」
語気が強くなり、電話の先で萎縮する母の姿が見える様だった。
「心配なのよ、ユリちゃんの事が」
「それはありがとう。でも結婚が全てだとは思わないの」
結婚した母、妹、中学高校大学の友人達の歴史をなぞっても、結婚すれば必ずしも幸せになれないことは自明だった。私は深いため息を吐きながら通話を切った。
芳樹は、私がもう結婚はしないだろうと諦めて、三十代の後半の頃に思い切って買った、この一軒家に住み着いて三年になる。それから今日までの三年間で芳樹は私の家で少しずつ彼の陣地を増やしてゆき、土建系のアルバイトで培ったスキルを思う存分に発揮し、サンルームを増築して自分のアトリエを作った。
仕事を終えた私が久しぶりに彼のアトリエを覗くと、釣りをしている河童像が見えた。これまた筋肉隆々で、体操選手みたいに綺麗な筋肉だった。
河童は進化していった。
芳樹が河童を作るようになってから、私は少し注意深く創作状況を観察するようになった。
一体、二体、三体、四体、五体。
創作の興が乗った芳樹は、河童の怨霊に取り憑かれたよう河童を量産した。ヤング向けの漫画雑誌のグラビアから出てきたようなナイスバディの女河童が合掌し修行している姿。河童のお皿が薄くなり、嘴も人間の唇に近くなった、河童なのか人間なのか、境界が曖昧な生き物が、餓死寸前のような痩せこけたお腹で瞑想する姿。お酒を飲んで酔っ払う河童の姿。修行したり遊んだりする河童の像が私のリビングに溢れていった。
「なんで河童は修行しているの?」
ほんの三週間で河童に居所を奪われ、居心地の悪くなったリビングのソファに寝そべりながら、私は芳樹に聞いた。
「河童は修行して人間になるんだよ。頑張れば頑張るほど人間に近づくんだ」
「遊んでいる河童もいるみたいだけど」
「河童だって修行ばかりじゃ嫌になるよ」
芳樹は満足そうに答えた。
「この中から、今度の公募に一体出品しようと思うんだ」
「河童を?」
「うん、入賞すれば付加価値がついて売れやすくなる。どれが良いか一緒に考えて欲しいんだけど」
私はそう芳樹に言われて、リビングに所狭しと並んだ自然釉で焼かれた渋茶色の河童たちを眺めた。
インパクトが強いのはどれだろう。
ふと注目したのは、カルラ炎を纏った不動明王のモチーフで作られた燃える河童だった。これだ。
「不動明王河童? がいいんじゃないかな。ご利益ありそう」
「それか」
芳樹は驚いたように目を細め、腕を組んで息を一つ吐いた。
「台座が少し歪んでいるんだ」
「それは残念」
「いや、削ればなんとかなる。俺も自信作ではある。実はこっちの餓死寸前の河童人間と迷っていたんだ」
芳樹はそう言って、不動明王河童を大切そうに抱いて外の作業場に出ていった。
夜の庭に、河童の焼き物の台座を削る電気ヤスリの機械音が騒々しく響いている。。
「大変だ」
電気ヤスリが台座を削る音が止まり、芳樹が言った。
「ヒビが入った」
私が駆け寄ると、台座から河童の股にかけて大きなヒビが入っている。
「これじゃダメだ」
心から失望した芳樹が泣きそうな顔で天を仰いでいる。山の中腹にある私の家では冬支度が始まり、肌寒い夜風が頬を撫でていく。困ったと声にも出せず、出品できなくなった燃える河童像を前に立ち尽くすばかりの芳樹の背中をさすってみる。
「公募の締切はいつ?」
「二週間後の日曜日」
あと二週間で同等の作品を仕上げるには、少々難しいのではと感じた。
「他の作品から選ぶ?」
私がそう問うと、
「いや、作り直すよ。ギリギリまで頑張ってみてダメだったら他の作品を考えてみる」
芳樹は気持ちを立て直そうと呼吸を深くして私に笑って見せた。
「こんなこと、初めてのことじゃないんだよ。長い間作品作りしてたら、上手くいかないことなんて数えられないくらいあるんだ。別にピンチってわけじゃない。むしろもっと良い作品ができるチャンスかもしれない」
そう言いながら芳樹は工具をしまい、
「今日はもう遅いから明日から作業するわ」
と言って、家の中に入っていった。私は庭に残り、まだ熱気の残った芳樹の作業場を見つめていると、台座にヒビの入った不動明王河童が作業場に投げ捨てられたままだった。可哀想だったので駐車場まで運んでみる。そのうち苔むして、横にある枝垂れ桜の樹と一体化してくれるのだろうか。冷たい風を耳で受けながら、秋の虫がわずかに鳴いている音が聞こえた。秋も終わりだ。秋の残り香が風に乗っている気がして、私は深呼吸をして肺一杯に空気を吸い込んだ。芳樹が抱えたストレスを一緒に受けて、それを体から追い出すような儀式に思えた。
振り返ると駐車場の街灯に照らされた不動明王河童の姿がなんとも神々しかったので、ズボンのポケットにあったスマホで写真に収め、自分のお守りとした。
家に戻り、寝室に入ると芳樹がダブルベッドの上で作業着のまま仰向けになっていた。電気もつけず、目を瞑り、このまま寝てしまうのではと思うほどの疲労感に襲われているような印象を受けた。ここ暫く、ずっと河童作りに集中していて、全く休んでいない。それでいて、家事の手を抜くことはなく、私のためにお弁当を用意し、朝ご飯も夕ご飯も栄養バランスが考えられた食事を用意してくれている。洗濯物も、ゴミ捨ても、お風呂掃除も、シンクの掃除も、何かも任せきりになっている。私は少しでも家事を手伝おうとお風呂場に行き、軽く浴槽を洗ってお湯を張るスイッチを入れた。お湯が浴槽に勢いよく注がれる音を聞きながら寝室に戻る。
「今お湯入れてきたからお風呂入ったら」
もう寝落ちてしまったかもしれない芳樹に声をかける。ほんの五秒くらいの沈黙の後、「ありがとう」と彼は言った。
「あのさ、ちょっと聞いてくれる?」
彼は腰を重そうに上げて、ベッドに腰掛けた。
「もちろん。どうしたの?」
「俺さ、ちょっと焦ってるのかも。ほら俺も、もう五十過ぎたじゃん? 大学出て、二十代から三十代の半ばくらいまではちょっと売れてたから調子乗ってたんだけど、ここ十年鳴かず飛ばずだし。ユリと付き合って、一緒に暮らすようになってからはバイトは本当に必要最低限度で、作品作りに集中できる環境に甘えてんのにさ、なんか結果を出せなくて、本当にごめん」
芳樹は私とは目を合わせず、膝の上で腕を組みながら貧乏ゆすりをしている。
「私は芳樹の作品が好きだから。ごめんなんてことは全然ないんだけど。あまり結果にとらわれないで、好きなように伸び伸びと作品を作って欲しいよ」
「認められたいっていう欲があるんだよ。多分、不特定多数に」
「私が認めているよ。私が一番のファンだと思う」
「ユリの気持ちは嬉しいんだけど、やっぱり賞が欲しいんだよね。それがバカバカしいのもわかっているんだけど」
私は芳樹の隣に腰を下ろし、揺れている彼の脚を抑え彼の手を握った。
「自分でわかってるんじゃない。賞を取るために作品作りをするのは本末転倒だって。まずは自分が作品を作ることを楽しまなきゃ」
そう私が言うと、芳樹はじっと私の手を見つめて「そうだね」と答えた。迷子になりそうな子供が親の手を握り返すように、彼は私の手を握り返した。
次の朝は一限に講義が入っていたので、早い時間に家を出た。芳樹は一緒に早起きして私のためにお弁当を作って持たせてくれた。
地方私立大学の教授というのが、私が家庭を諦めて手に入れたキャリアだった。諦めたというと語弊があるかもしれない。ただ単に、結婚に縁がなくて、キャリアを手に入れた事実を言い訳にしているだけなのかもしれない。今更芳樹と結婚したいと思わないのは、私たちの関係は夫婦というよりも親友に近いからだろう。
一限の講義が終わり、自分の研究室に戻る。回収したコメントシートに目を通し、学生の反応を見る。一般教養科目の「文学の世界」という科目を担当しているのだが、「日本文学の、しかも江戸時代の作品ばかりを取り扱っていてバランスが悪いです」というコメントを見つけ頭に血が昇る。日本近世文学の研究者なんだから、自分の専門分野の作品を取り扱うに決まってるだろうと怒りが湧いてきて、コメントシートを破りたくなった。
「友達が河童の置物を作ったお話が面白かったです!」と講義とは関係ない脱線話の感想を見つけ、思わずニヤけるも、ちゃんと本題を聞いて欲しいと思ったりもする。いつも講義の冒頭で前回の講義のコメントシートに対するフィードバックを行なっているので、内容の理解を助ける質の良い質問を探した。
芳樹は今頃河童と奮闘しているところか。気がつくとお昼ご飯の時間になったので、机の上に芳樹が作ったお弁当を広げる。すると研究室のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
大きめの声を張り上げると、女子学生が一人入ってきた。黒髪ロングの姫カット。ベージュのトレンチコートで黒のミニスカートを穿いており、寒くないのかと気になってしまう。
「先生、すみません。今日の十二時締切のレポートなんですが、レポート提出箱がもう提出できなくなっていて、なんとか受け取ってもらえませんか?」
その手には白いレポートの束が収まっており、私の前に差し出している。時計を確認すると今は十二時半。さてどうしたものか。
三秒ほどの沈黙のあと、緊張する空気を和らげるために私は「まずは座って」と彼女を椅子に座らせた。
「どうして遅れたの?」
「お腹が痛くなってトイレに篭ってました」
女子学生は目を伏せて申し訳なさそうなジェスチャーに集中していた。どうにか受け取ってもらえないかという念が強く放たれている。私は息を鼻からゆっくり吸って、鼻腔の奥を冷やしながら受け取るか考える。体調不良からの理由は断りにくい。口から細く息を吐く。
「難しいですか?」
「そうね。ちゃんと期限を守った他の学生と同じ評価はできないけど、まあ三十分だし、受け取りましょう」
私がそう言うと、彼女はパッと顔に光が射したかのようにニッコリと笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。
「お食事中失礼しました」
彼女は机の上に広げられた私の弁当を一瞥し、椅子から立つ。そのまま踵を返して研究室を後にすると思いきや、「先生」と声をかけられた。
「先生はインスタとかエックスはしないんですか」
突然想像もしない方向から馴染みのない単語が投げかけられたので、私は目を点にして言葉を失う。
「すみません、今日の授業でお友達が作った河童の話が面白かったので、SNSで写真を公開してないかなと思いまして」
彼女が私の機嫌を損ねたのではと心配そうな様子で話しかけるので、
「SNSは考えた事もなかったですね」
と咄嗟に取り繕ったぎこちない笑顔で返した。
「最近は大学の先生がアカウント作って面白い情報発信しているんですよ」
「炎上している先生もいるけど」
「Facebookでお友達同士だけに公開するっていうのもありですよ」
「Facebookはゼミ生になるとお友達になるんだけど、普通の授業の学生の友達リクエストは無視しているんですよ」
「そうなんですね。だから私のリクエストが通らないわけだ。じゃあ、三年になったらゼミに入ります」
彼女は晴れやかに笑ってそう言うと、「それでは」と研究室を後にした。
ドアが閉まる音の反響が終わると、お弁当に目が移る。卵焼きに鮭の切り身、プチトマトとナスの揚げ浸し、白いご飯にネギの味噌汁。保温機能がついた水筒みたいなお弁当箱。甘い卵焼きを一口頬張り、物思いに耽る。
インスタかエックスか。芳樹の作品も人目に触れれば欲しい人の元に情報が届くかもしれない。星野ユリという自分の本名アカウントをわざわざ作らなくても良い。いっその事、河童工房という名前でアカウントを開設してみようか。おもむろにスマホを手にしてネットで「エックス 河童工房」と検索してみると、すでに誰かがその名前で活動をしていた。
自分の授業を受けている学生にわざわざ見てもらう必要はないが、ただ単にネットの海に情報を放つよりも、ある程度の人に伝えたほうがより多くの人に伝わるのではと考える。実際、さっきの学生は興味があると嬉しそうだった。お客になるかどうかは分からないが、芳樹には作品を誉めてくれるファンが一人でも多くいたら自信になるのではと思った。だからと言って、私が勝手に蓮沼芳樹というアカウントを作ってしまうのも、彼の意志に反している気がする。
どうせ芳樹はネットなんて見ない。
私は勢いに任せ、新規アカウントを作るページに進んだ。
ユリ、趣味は陶芸。陶芸をしている人と繋がりたいです。
とだけ書いて、実名は伏せた。学生にはわざわざ伝えなくて良い。今度の授業のスライドのおまけで写真を紹介しても良いかもしれない。芳樹の作品の写真を探して、昨日の夜に駐車場で撮った不動明王河童をアップロードする。
同居人の作品。不動明王と化した河童がライトアップで燃えているよう。
と打ち込みネットの海に放流した。
初めての投稿は、三日ほどで誰とも知らない通りすがりの人からいいねボタンを三つほどもらって、それからは何の反応もなく二週間が経過しようとしていた。
私は二回目の投稿に向けて、リビングを占拠している河童の大群の写真を収め、「河童に家をジャックされた! このままでは私も河童にされてしまうので、河童の引き取り手求めます」
と投稿してみる。
公募の締め切りが迫る中、芳樹は寝る暇も惜しんで作品作りに打ち込み、作り直した不動明王河童がいよいよ完成した。
「郵送する時間はないから、明日になったら直接本部に行って納品するわ」
芳樹がそう言うので、「私もついて行こうか?」と言ってみる。
「いいよ、遠いし交通費も二倍かかる」
「交通費くらいカンパしてあげるよ。せっかくだから東京デートしようよ」
そう言うと芳樹は照れ臭そうに笑って、「まあ、じゃあお言葉に甘えます」
と言った。
「移動中に壊れないように梱包するわ」
芳樹はダイニングテーブルの上に出品する予定の不動明王河童を置いたまま、梱包材を探しに納屋へ向かった。
ピロリンと私のスマホが遠くで鳴る。何かの通知らしい。スマホは仕事カバンに入れたままで、寝室に放り投げていた。数えて軽く二十はある大小様々な河童の焼き物が占拠するリビングのソファに腰を沈め一呼吸すると、またピロリンと鳴った。
芳樹が納屋から梱包材を抱えてリビングに戻ると、またピロリンと鳴る。
「養生テープどこだっけ?」
芳樹が言うので、私はソファから腰を上げる。確か玄関横にある収納棚にあったはずだ。
ピロリン、ピロリン、ピロリン、ピロリン。
LINEで誰かが大量にメッセージを送信しているのか、スマホの通知音が続け様に響いている。スマホの入った仕事カバンを取りに寝室に向かう、ほんの十何歩。私のスマホは単調な通知音を休むことなく鳴り響かせた。
十通、二十通の騒ぎじゃない。もう百はいっている。また母だろうか。ミルクちゃんが何か可愛いことをしたのだろうか。
鳴り止まないスマホをカバンから救い出し、ディスプレイを見る。
エックスの通知だ。
ピロリン、ピロリン。
ポップアップ画面が止まらない。
先ほどアップした、「河童に家をジャックされた!」と打ち込んだ投稿が誰かの目にとまり、次々といいねボタンを押され、さらにリポストによって拡散されているのだ。
聞いた事がある。バズる、という現象だ。
私はスマホのポップアップを触らないように気をつけながら管理画面に辿り着き、どうしたら通知が止まるのか手探りで設定を探す。呼吸が浅くなり、手に汗が滲む。ああでもない、こうでもないと管理画面のボタンを押しては戻る。
「どうしたの? スマホ壊れた?」
芳樹が心配そうに寝室に入り、私を案じた。
「ちょっと待って、今止めるから!」
管理画面を注意深く見ると、「通知」という欄を見つけた。呼吸を止められた中で急に酸素を吸うことを許されたような安心感と共に、通知設定をオフにした。
「何だったの?」
静寂が訪れると、芳樹はそう言った。
「私もよくわからない」
私は静かになったスマホを手に通知欄を覗いてみた。通知欄のベルマークの吹き出しには赤字で20と反映されており、ベルマークを押すと、誰々さんと他二十名があなたのポストをいいねしましたと通知欄にお知らせが入っている。また、所々からリプライが届いており、「すごいリアルですね」「ちょっと欲しいです」「死ぬほど笑いました」「造形のレベルが高い」と前向きな言葉の数々を浴びて、私はすっかり良い気持ちになって、ニコニコと笑い、スマホの画面に吸い込まれていった。
「どうした? なんか嬉しいことでもあったか?」
スマホの世界に没頭してしまった私の意識を覚ますように、芳樹が声をかける。
止まらない通知を握り締めながら、私は今は何も伝えなくても良いと思った。彼の作品が私だけでない、沢山の人の目に触れ、褒めてもらっている事実が、心の中で花火のように煌めいている。
「もう少し落ち着いたら話すよ」
私は芳樹にそう言って、静かにスマホをベッドのサイドテーブルに置いた。
リビングに戻ると進化を遂げる大勢の河童が私を迎え入れてくれ、この河童のいくつかが誰かの手に渡る未来を想像し、その時、芳樹の自信が満たされ、少しでも報われてくれるのではと期待した。芳樹は私より先に歩いて、不動明王河童を白いプチプチの梱包材で丁寧に巻いている。
「芳樹」
私は彼の名前を呼んだ。
「何?」
「河童シリーズ、本当に売れるかもしれないね」
そう言うと、彼は「そうだよな」と満足そうに笑って見せた。