配信後記:阪神淡路大震災から30年(前編)
1/17。阪神・淡路大震災から30年を迎えました。震源から近いエリアに住んでいたので、定期的に雑談の中で当時の思い出話をするんですが、ちょっと今回は節目でもあるなーってことで、震災をテーマとして立てて、Bluecastで配信させてもらいました。
阪神・淡路大震災とは
1995年1月17日、午前5時46分。兵庫県南部で地震が発生し、国内史上初の震度7が観測された。死者6434人、住宅被害は約64万棟の大震災となってしまった。
ちなみに震度ってのは、「地震の揺れの強さを表す値」で、日本では「0、1、2、3、4、5弱、5強、6弱、6強、7」の10段階が設定されている。揺れの強さの数値的には8以上も設定あるのかなと思ったら、防災上7で最大級の防災体制を取るんだから、それ以上を設定したところで意味が無いから設定は無いんだって。
なお、震度のスケールは色々あるようで、海外だと12段階で表してたりするようだ。いずれにせよ数字が大きくなれば強いことには変わりない。
震源は、明石海峡、淡路島の北端らへん。神戸は海からすぐ山(六甲山脈)が迫る地形となっていて、山と海の間の細いエリアに沢山の人が生活している。その細いエリアを狙うかのごとく震度7の揺れが襲ったのだった。
この震災を機に、震度の表現の見直しが行われたり、耐震強度についてのルールが定められたり、蛇口の仕様が変わったり、ガスボンベの仕様が統一されたり、ボランティ活動が活発になったりと、防災面の見直しがどんどん行われて今日に至る。
当時の記録は各所にまとめられているが、神戸新聞とNHK神戸放送局が開設しているサイトが分かりやすいかなぁと思ったので示しておく。
震災と私の関わり
私は当時高校生だった。卒業を間近に控え、最後の研究発表を行うべく資料作りに勤しんでいる時期だった。明け方まで資料作りをしていて、フロッピーディスクにデータを書き込んで積み上げて、もう眠さが限界だから横になろう……とベッドに倒れ込んだのが5時過ぎ。それから30分ぐらいで地球に叩き起こされることになる。
私の自宅は六甲山脈の裏側だった。震源からは直線距離で10kmぐらい。ものすごい揺れではあったが、山を切り開いて作られた住宅地で、地盤は良かったのか、周辺もさほど大きな被害は見えなかった。
しかし停電はしていて、情報が得られない状態だった。外に出たら、近所のオジサンたちも出てきてて、「えらい揺れやったな~、無事で良かったわ~」なんて言いながら空を見ると、山の向こうから、なんだか黒い雲が広がっていた。
「大きな地震の後って、雲が黒くなるんかねぇ」なんて言っていたのだが上の図を見ていただくと山を超えた先に赤く塗った楕円エリアがあると思う。そこが長田区。散々テレビに流れまくった、今でも紹介映像で使われがちな、街が火の海に包まれたエリア……そう、私達が「黒い雲」と言っていたのは、火災の煙だったのだ。
30年前といえば、まだインターネットは普及しておらず、草の根BBSと呼ばれる電話回線を利用したネットワークを利用していた。草の根BBSに繋いで無事を知らせたいが、既に電話はパンク状態。まだ携帯電話が普及する前の時代、固定電話がメインである。家の片付けをしながら、合間合間に接続チャレンジするものの回線が取れない状態。接続できたのは地震発生から半日が過ぎようとした夕方だったように記憶している。
数日は地元で様子をみていたが、自宅周辺はほぼほぼ問題無い状態だったので「何か手伝えることあるかもしらんから、ちょっと学校行ってみるわ」と自転車で1時間半かけて学校へ行ってみることにした。
学校は兵庫区にあり、上の図の右にある赤丸の地点。自宅からは山の切れ目を抜けて長田区に出て、海岸沿いの国道沿いを東に行けば着くはずだ。
山を越えて長田区エリアに入ったら、視界は真っ黒だった。そして1月半ばの寒い日のハズなのに、地面からぽかぽかしてくるのだった。そう、鎮火したとはいえ、まだ熱が残っているのだ。もう数日経っているのにまだ熱を感じるということに恐ろしさを感じながら進んでいく。
学校についたら被災者を受け入れていてどの教室も人が一杯だった。最大で2000人を受け入れていたと聞く。着の身着のままでやってきた人が、支援物資を分けてもらいながら身を寄せている。だいたいここらへんでね、って感じで区画は切っているが、仕切りなんてない。人を疑うつもりはないけど、自分の身は自分で守らないといけない緊張感。
ただの高校生だった自分には、何が出来るのか、何と声かけたらいいのか、とか全然頭が回らなくて、自分に手伝えることなんかあるんだろうかと無力感さえ感じていた。
そんな時、学校の入口で必死にノートを読んでいる人々を目にした。避難所に入る際に、名前や住所など情報を書いてもらった被災者名簿のような扱いのノートを順に見て、身内や知り合いが避難してきてないか調べてるようだった。
私はコンピューター部で活動していたので、人並みにはデータの打ち込みは出来ていた。ちょっとしたマクロとか、簡単なプログラムを作ったりしていた。「名簿をデータベース化させれば調べるのが楽にならへんか?」と思い、災害支援で出てきてた顧問に学校の端末の使用を許可いただけないか、かけ合おうとしたら顧問も同じことを考えていたらしく、即実行となった。
名簿に書かれている字は当時の必死さが滲み出ていて、読み取れない字が多かった。都度確認しに行ったりしながら何日もかけて名簿を作り上げた。
同時に検索フォームのUIも用意し、名前と居住地区を打ち込めれば検索出来るような仕組みを作った。
早々に顧問が端末を学校入口に設置し、検索端末として運用開始。人探しのスピードが早くなったし、各所に提出が必要になった際にもすぐにまとめて提出できて、大変喜ばれた。
それからも年度内は時間ができたら学校に足を伸ばしていた。手伝いだけでなく、話し相手になったり、こどもと遊んだりもした。日が経つにつれ、避難所から出ていく人もいたが、それでも多くの被災者を抱えている状況だったため、自分たちの卒業式は行えないなぁと諦めていた。
……が、「卒業式は実施してあげて」と被災者のみなさんが協力してくださり、被災者で一杯だった体育館が卒業式の日には立派に卒業式会場として整えられていた。卒業証書をいただくことよりも、その場を提供していただいたことが最高に有り難く、心に残っている。
震災遺構が見られる場所
配信では時間が足りなかったので、紹介できませんでしたが、30年経った今も保存されている震災遺構がいくつかありますのでご紹介。
神戸港震災メモリアルパーク
神戸ポートタワーの足元に、震災当時のまま崩れた波止場が保存されている。いつでも見られるので、ポートタワーや神戸クルーズにお出かけの際にはちょっと足を伸ばしていただきたい。
震災資料保管庫
震災の映像としてインパクトが強かったので記憶に残っている方も多い、倒れた高速道路の管理者だった阪神高速さん、当時の被災した高速道路関連のアレコレを資料として保管している。
事前予約が必要だが、月に数回、見学ができるようなので、興味の有る方は予約してみるのもいいかもしれない。
野島断層
神戸から明石海峡大橋を渡って淡路島に渡ると、野島断層が保存されている。大規模にズレた断層を200m弱保存している。一部は地面を掘り、横からも見ることが出来、立体的に断層の状況を認識することができる。
断層の近くで壊れずに耐えた民家がそのまままるっと保存されており、家の傾き具合や、当時を再現したキッチンなど見学できる。
神戸市長田区に100年以上前に市場の防火壁として建てられ、震災時の大火災から焼け残った「神戸の壁」が移設されているのもココ。
長くなっちゃったので今回は前編としてここまで。後編は今できる防災について話したことをご紹介していきます。
Bluecastは、Blueskyアカウントをお持ちであれば誰でも利用できます。配信機能では、(ちょっと準備の練習は必要ですが)カラオケも歌えちゃいます。是非お試しください。