超えられる存在として(受・可・自・尊)
「先生」というとどんなイメージをお持ちでしょうか。
○ なんでもわかりやすく説明してくれる人
○ 学ぶべきことが多い立派な人
○ 人を正しい道に導く人
といったイメージでしょうか。
よって、私は「自分は先生ではないな」と思っています。
私が意識していることは、「超えられる」存在であることです。
(日本語は難しく、「超えられる」は複数の意味を持ちます。敢えてそれを逆手にとって)
□ 受け身(子どもは私を超えていく、私は子どもたちに超えられる)
私は私なりに一生懸命生きてき間下。人類全体としてもそうだと思います。その中で解決できた問題と、未解決の問題・新たに生まれた問題があります。
次の時代を生きる人たちは、私たちには解決できなかった問題が残されることになります。
現代の私たちがまだ解決できていない問題としては例えば、個人の感情のコントロール、個人間の争い、社会の中で適正な合意形成を適正にすること、いじめ、差別、格差の是正、新しい技術の社会適用、戦争、貧困、新たな脅威(医療、宇宙など)・・・・これらの問題は現代の私たちの頭脳では複雑すぎて解決不能に見えています。しかし、一見不可能と思えた課題も乗り越えてきたのが人類の歴史でもあります。
今の若い人たちが、私たちを超えてくれる存在になってくれるために、私たちがこれまでにしてきたこと(成功も失敗も)は、きっと彼らの思考の礎になっていくと考えています。
決して、連立方程式が解けるようになって欲しいわけでも、英単語を覚えて欲しいわけでもありません。そんなのは今の私たちでもできることです。もっと複雑で私たちには歯が立たなかった問題の解決の糸口を見つけ出していってほしい。今やっていることは、あくまでそのための過程に過ぎません。
□ 可能(子どもは私を超えることができる)
予め私が「正解」を知っていて、それを教える・覚えさせるということは、私はしていません。一緒に問題を読んで、情報を整理して、どうやったら糸口を見つけられるか? というところから始めています。一緒にやって一緒にできているから、一人でやってもできるようになるんじゃない?
また、自慢にもなりませんが、私もしばしば間違えます。計算競争で負けることもあります。私が思いつかなかったアイディアを子どもたちが出してくれることもあります。
私ごときは、すぐに超えられそうですね!
□ 自発(自然に超えてしまう:かなり強引ですが)
私のアプローチは、書いてあることを理解して(そのために情報を整理して)、できることと組み合わせてなんとか問いに答えていく、というものです。特別なテクニックや知識を用いるわけではありません。
だからこそ、どんな科目や問題にも対応できるのだと思います。
それに加えて、私自身が個人的に苦手なことや不得意なこともあります。つまり結果として、自然に超えられてしまうのであります。
□ 尊敬(子どもたちが私をお超えなさった:これも無理矢理ですが)
私は日々、未来の大谷選手や藤井くんのような人たちと接していると思っています。
今はまだ、私の方ができることはありますが、それは一時的なこと。あっさりと超えていってしまうんだろうな。それはうれしくもあり、少し寂しい気持ちもありますが、大いに尊敬しています。
しかし、逆に言えばそんな簡単に超えてもらっても困るとも思っています。最初は「無理だよ」と思ったことが現実になるからこそ、彼らの自信になっていくのです。ですから、私は手を抜きませんし、負けたら本気で悔しがって歯軋りをしています。驚くときも本気で驚きますし、つまらない時はつまらないとも言います。
それだけ、大いに期待していますし、保護者の次くらいには「推し」ているつもりです。
昨日、卒業生に会って、ふとこんなことを思いました。