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結局「好き」と「愛」なんだよ

最近、愛について考える。愛と言っても男女のloveとかそういうのじゃなくて、ジェネラルな愛だ。loveっていう動詞は、強いlikeみたいなニュアンスでも使うやんね。"I love playing video games.(あたい、ゲームすんのがめっちゃすきなの)"というように。その愛です。

毎週Podcastを収録・編集・リリースしてて、「面白いってなんなんやろう」って常に考えている。映画の面白さももちろんそうだし、自分が作っているPocastがどうやったら面白くなるか?っていうことも。「これだ!」っていう答えがいきなり見つかるという種類のものごとでもない。

そんなところに、ここ数日じんわりと浸透してきた考えがあってね。「もしかして『好き』と『愛が』すべてなのでは?」っていうこと。

Podcastを一緒につくってくれてる縣まさえさんが、よく言うのだ。「なんかわからないけど感動しちゃうんだよね」って。彼女が歌のレッスンを施したミュージカルを見たりなんかしてね。僕もかつて出てた舞台なんだけど、あれは確かになんらかのメカニズムの上に成り立っている種類の感動じゃない。なんなら出演しているひとも何なのかよくわかってないと思うが、そこには「愛」が溢れている。作品に対する愛、自分が表現しようとしていることに対する愛、仲間に対する愛。

最近お友達が「のぶをっぽいので」と言って、画集を紹介してくれた。「空想街図鑑」という本。いろんなテーマで建物や乗り物ばかりが手描きで可愛く描かれている。ひと目見て、「こりゃあ楽しんで描いているなあ」ってわかる絵。ものすごい量と細かさなのだけれど、「この世界観が好きなのッ!」という一点の気持ちでやり切っちゃっている。本の作者の姉妹は雑貨店とカフェも営んでいて、足を運んでみるとこれもまた「好き」がはみ出しているすてきなお店だった。


吉祥寺の「空想街雑貨店」

このように、人の言ったことや、自分が見て感じたことが、だんだんと形をつくってはっきりしてきている感覚がある。パズルのピースがはまっていくように。人の心を動かすのは、結局、人の心の動きなんだと思う。

かたちが整っていなくても、えらく感動するということがしょっちゅう起こるのは(時にはすごく整えられたものよりも良いこともある)、こういうことなのだろう。

僕は恥ずかしながら、ラジオ番組やら文章やらイラストやらを世界の片隅でしみじみと作っている。小さい人間なので、人の目は気になるし、好かれるためにどんな形であれば良いのかなんて悩み、迷走する。何かを作って発表するっていうのは、そういうものなのだろう。だが、ただひとつ確かなことは、自分の「好き」と「愛」に忠実につくりたいなってことだ。

そもそもここがぶれると、誰の心も動かないのではないか。自分に正直なものって、下手であっても、作ったときの気持ちが爽やかだ。それこそが自分がやる意味なんじゃないかなあ。


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