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顧問にいじめられていた話

1.前書

高校生の頃の私の音楽の話を少しする。
少し重い話が入るので、今幸せな気分な人はそうじゃなくなったら読んで。

ただの自分語りになるので、見てくれる人だけ見て。電車とかの暇つぶしに使って。
音楽との出会いとかはまた別の機会に。

2.顧問に嫌われるまで


高校2年

軽音部の部長になった。

部員の半数がなんとなく軽音部を選んだような、あまりやる気のない部だった。その悪循環を私の代から変えようとした。

やる気のないやつはやめろとは絶対に言わんが、やる気のある人間たちはちゃんと評価するべきと考えていた。

具体的に、年功序列でライブの出順が決まる仕様を廃止し、オーディション形式にして評価の高いバンドの出順がライブの盛り上がる後半に来るような制度にした。
他のバンドの練習中、待っている時間も練習できるように自前のミニアンプとギターを設置した。
ボーカルの返しや、ミキサーの使い方など基礎知識を部員に伝え、知り合いのバンドスタジオでバンクリを恒例化させた。

と、色々修正した。上手く行ったと思う。部員にも少しずつ向上心が芽生え、私の考えに賛同してくれる部員も増えていった。

しかし一部のなんとなく部活をやってた部員はそれを良く思っていなかった。

私のバンドメンバーがそうだった。

私のバンドメンバーは特にやる気がなく、練習日も各楽器が譜面読みから始まる。やることがない私は校庭のテニス部を眺めた。あんな風に精一杯やりたいなって。

とはいえ部外でバンドも持っていたからあまり気にはしなかった。部活のバンドに期待なんてなかった。

「そのバンド抜けて他のバンドに入れば?」って思うかも。
顧問がそれを許さなかった。なんで??
他校の軽音部の友人がいたが、どこの高校にもバンドの移動を制限する部活は無い。
顧問曰く「バンド移動を許してしまうと、やる気のない人たちがもっとやる気なくなっちゃうでしょ?」とのこと。
言いたいことはわからなくもないが、そんなん知らんわタコと思った。
沢山ぶつかった。しかし顧問の言うことは絶対だった。
職員室で顧問と怒鳴り合いの喧嘩もした。

次第に顧問から精神的ないじめを受けるようになった。

ここでそれを獺祭するとそれはただの不幸自慢だし、あまり具体的に書きたくないから端折るが、学校を休む日がぽつぽつ出始めた。

3.群青ダイバー


高校3年。
軽音部のバンドメンバーと顧問が結託して、難癖付けて私をバンドから強制脱退させた。

部員で私だけ文化祭で体育館のステージに立てなかった。

それまで学校の改装工事が入っていた関係で、体育館のステージに立てる最初で最後のチャンスが、無くなった。

ずっと憧れてた舞台からの景色が見れなかったこと。

音楽を好きに鳴らしていい大好きな場所の魔法が解け、そこがただの視聴覚室に戻ったこと。

クラスメイトには馴染めなかった。仲良くなる必要がないと思った。今でもそう思う。

一番の居場所だった軽音部に行かなくなり、もっと学校に行けなくなった。
たまに教室に顔出して「寝て起きたら2日経ってた」とか「開校記念日の騒ぎが三日三晩続いた」とか、「出席していたけど透明になる薬を飲まされていた」わけわからんこと言ってふざけてた。そういう性格なので。

行きたいとか行きたくないとかじゃなくて、行けなくなった。
その間は暇だったから、音楽を聴いた。

なんとか学校の最寄り駅に着いてもそこから足が進まなくなって、でも帰れなくて、色々考えながら沢山散歩した。フジファブリックを聴いた。

いつも賑やかな通学路は、昼間はただの住宅街になること。
並木道がしんとして綺麗だったこと。
授業中の誰もいない廊下に差し込む太陽はきらきらしてること。

音楽はいつでも私を迎えてくれること。

顧問は他の先生に私を心配するふりをしていたそうだ。

大人は簡単に嘘をつくこと。

いままでふざけているタイプだったのでみんな心配してくれた。その気遣いも苦手だった。ありがとうごめん。

たくさん話しかけてくれた後ろの席のレナちゃん。とても嬉しかったし、ありがとうって思ってたけど少し苦手になった。

たまに出席しても授業とは関係ない小説を読んだ。滑り止めで受けた普通の私立高校だったので定期テストは気にせずともこなせた。孤立はしなかったが、1人でいるのが楽だった。


放課後と休みはピザのデリバリーかバンドスタジオかライブハウスにいるか本を読んだ。
学校より滞在時間は長かったが、学校の時間より幸せだったので短かった。

沢山音楽を作った。中でも飛び抜けて良い曲ができたので、「群青ダイバー」って曲名にした。

初めてタバコを覚えた。
かっこいいとか、憧れて、とかでもなく、ライブハウスの仲間といたらいつのまにか吸ってた。そうなるような気はしていた。

縁あって信じられないほど大きいステージに立つ機会があった。体育館よりも大きいステージだった。

ただ単純にそのステージに立ちたくて、あとついでに顧問とメンバーへの復讐も兼ねて、思いの丈を全部吐いた。

でも文化祭に出られなかった事実はまだそこでしっかりと私を見ていた。目をそらさせてくれなかった。

なんだかんだ卒業は出来た。
でも出席日数は少し足りなかったはず。
私の異常に気づいてくれた先生方が日数を誤魔化して卒業させてくれた。
まあ今思えば、留年させるのもそれはそれで手間だったのかな とかも思うが、結果的にはとても感謝している。

卒業式が終わってもすぐバンドスタジオに向かった。

4.それから

沢山音楽を鳴らして生きた。
生きる為には学歴が必要なので、大学とかそういうのに行った。それもまた別の話。
同窓会は一応誘われたけど、行かなかった。
他の理由も含めて何度か軽い鬱になったりもした。三代欲求を呪った。後戻りできないほど心が溶けたことがあった。一度死んだつもりで音楽をまた鳴らした。良い曲ができたので「破瓜」と名付けた。

悲劇は私の武器になっていた。

5.まとめ

結局なんの話かってとこなんですが、
のうべんばあは沢山ライブがしたいんです。
文化祭の苦渋を吐き捨てたいのです。
どんどん大きくなるつもりです。

そして、いつかどこかの体育館でライブしたいなって思ってます。未来ののうべんばあはきっとできる。次の目標はそこです。あの日見れなかった景色が見たい。

いや重っ

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