水が合わない。
水が合う
“その土地の環境になじむ
または組織などに適応する”
といった意味があるらしい。
幸いなことにも、この地域の方々はあたたかく私を迎え入れてくれて、近くにはちょっとした居場所もあり、孤独を感じることもなく過ごせている。
快適かといえば分からないが、この不便さがまた良いものだ。
そういう意味では、この土地は私にとって水が合う場所と言えるだろう。
しかし1つだけ私ではどうしようもない、変えようもない、適応できない事実があるのだ。
そう、水だ。
私は実家で今まで、蛇口にそのままつけるタイプの浄水器を使って水を飲んでいた。
その味に慣れてしまっているのかなんなのか、古民家の土地の水がおいしくない。
実家に戻った際に、浄水器を介していない水を飲んでみた。
特に問題なく飲めたのだ。
つまり浄水器の有無は関係なく、源水の違いを感じているのではないかと考えた。
浄水器を買おうという案は富士さんとも以前話しており、初めは直接蛇口に付けるタイプのものを私は検討していた。
しかし実際にシンクを使ってみると、蛇口の低さから、直接付けないほうが洗い物などはしやすいのではないかと考え直した。
それにどうやら温度調節ができる蛇口に付けるのはあまり良くないとも聞いたところだった。
富士さんが提案してくれたポット式浄水器が良さそうである。
メーカーも決まっているので買えば良いのだが、なぜか私は二の足を踏んでしまっているのだ。
そこそこ高い買い物で、なおかつ自分が買ったことがないものを、そこまで困っているわけではないのに先に買ってしまうのが嫌なんだと思う。
ちゃんと話し合って決めたいと心のどこかで思っているようだ。
何リットルのものを買うかまでは定かになっていなかったのもその要因の一つだろう。
こうやって文章にすることで自分のことが見えてくるのもまた面白い。
しかし喉が渇いた時に蛇口から直接飲むことはやはりできないので、苦肉の策のして取り上げたのがお茶作戦だ。
お茶とは、大袈裟にいえば嗜好品である。
あってもなくても体への影響はほぼ皆無。
エネルギーにもならない無駄なものだ。
私はその無駄なものがとても好きなので好んで飲んでいるが、古民家に住むに当たり、節約を心がけなければならなくなった昨今
お茶というものはただ私から遠ざかっていくものだと思われた。
引っ越す少し前、親とスーパーで買い物をしていた時に、ここぞとばかりに入れておいたほうじ茶がこんな形で役に立つとは。
ディスカウントの安物であるが、今の私にとっては救世主である。
鍋でお湯を沸かし、お茶パックを入れる。
1回で1パック使うのが勿体無いので、最大で4回煮出している。
究極の生活をしているようで楽しい。
(究極の生活をしている人間はそもそもお茶など買わないか)