偉大なる言葉遣いに、献杯。
谷川俊太郎という、一つの大きな存在が地球からいなくなってしまった。昨夜は、彼が地球上に遺していった愛おしい言葉たちを、声にのせて故人への想いを馳せた。
ところで、「ぜんぶおまんこ」の物真似ではないが私は今ものすごく死んでしまいたいのだ。だから今、自分にとっての理想の死に様を考えているところである。理由なぞどうでもいいのだが、私はとにかくこの社会についていけないらしい。目まぐるしい速さで起こる生と死、喜怒哀楽、やるせない事件。駅の浮浪者、甲高いパニック声で叱られている子ども。レストランの金属食器が嫌な音を立てる。地下鉄の壁が重たい空気と攻撃的な匂いを放つ。夜の首都高では、社会の冷たさと資本主義を映し出すビルに見下されている。こんなことにいちいち立ち止まって悲しくなったり、嫌になったりしていたら、呼吸をするにはあまりにも苦しい世界になっていた。それでも平気な顔をして、年相応の人間になれる。アルバイトはカフェと居酒屋を掛け持ちしているし、大きなサークルも続けた、おまけに就職活動も、これは申し訳程度にやっている。それが少しばかり、重荷になりすぎてしまったのかもしれないな。太宰の『斜陽』を読んで、自分の苦悩みたいなのが過去の偉人に認められたような、でも認められてしまったら、私は今まで何にもがいてきたのか、頑張って抗っていたはずなのに、それは敵ではなかったと後出しで言われたような。その怒りや絶望に近い感情を消化(昇華?)するべく、過去に生まれた名作や、今を生きる人々の会話に目一杯触れた。共感をしすぎて自分が辛くなってしまうから、と、本能的に避けていたものを、積極的に摂取するようになって、大いに成長できたのではないかと思う。しかしたくさんの人の価値観や表現を受け入れすぎて、もういっぱいいっぱいになった。苦痛である!何をしても思考が止まらなくなってしまう!寝付けない!息ができない!常に臨戦体制で、興奮状態のような。あぁ疲れた。なぜみんな、平気な顔して歩いているんだろう。世の中の大半の人が私と同じような思考回路を持っているとしたら、みんながそれぞれ砂漠のように果てしない不安感や怒り、悲しみを持って、それでいてあんなに楽しそうに生きていられるなら、きっと私はこの世を生き抜くには弱すぎる生命体なのだ。
私はずっと、才能や、個性が欲しかった。あるいは圧倒的な人望でもいい。画家や作家、音楽家にずっと憧れていた。大きな病気があっても、精神がイかれてしまってもいいから、才能が欲しかった。あくまで持たざる者としての欲望であるが。天才的な何かを持つ人が、早死にしてしまう理由がなんとなくわかってしまった。わかるのに、私には才能がない。生と死について遠回しの言葉で表現する力も、メロディに乗せる力も、絵に吐き出す力も、行動力もなかった。ただ、深く悲しみにくれて死にたいだけの人間である。こんなのは、淘汰されるより他はないのだ。生まれ変わったら、ただただ欲望に忠実に生きる猫か、才能をもった人に。両親は、世間が理想とするような関係ではなかったけど、彼らなりにたくさん私を愛してくれた。それなりに、いい友達もたくさんいる。恵まれた人生だと思う。それでもこの時間の流れから逃げたいと思ってしまう自分は。ごめんなさい、ママ、パパ。ごめんね、大切で大好きなみんな。すみません、私と関係を持ってくれたその他たくさんの人。ごめんね、私。私の複雑で幼稚で繊細で粗雑なこの感情を、寸分のくるいもなく受け容れることができるのは、他でもない自分自身なのに。私は私のことがすごく嫌いで、そんな自分を好き、になりたかった。私の感情にいつも素直になれなくて、押し殺してしまってごめんね。命を断つことは、私の20年間の生涯で一番、自分の感情を優先してあげることなのかもしれない。涙が流れてしまうのは、死ぬのが怖いからなのか、長年押し殺してきた自分の本質みたいなものが喜んでいるからなのか、自分の感情のはずなのにさっぱりわからなくて不甲斐ない。だから、きっといないだろうけど、ここまで文章を読み進めてくれた人がいて、それで少し共感してもらえたら、いやきっとどこかで、自分の代わりに自分のことを受け入れてくれる人を、切に求めているのだと思う。友人に話すには、ちょっと申し訳ない。あるいは共感してもらっては、困る。大切な人を、悲しい気持ちに引き摺り込みたくない。だからもし、こんな自分を好きだと言ってくれる人がいたら、嬉しい。臆病で痛みに弱い自分は、きっとすぐには死ねないだろう。不慮の事故など、都合よく巻き込まれればいいのだが。あるいは偉大な人が死ぬくらいなら、身代わりになりたい。本望である。もし、自ら死を選ぶ時があるとしたら、最後に何をしたいと思うだろう。正装で現世と別れたいものである。似合わなくてもいいから、真っ赤で妖艶なヒールなぞ履いてみたい。あとはふわふわの白いリボンがついたドレスも、着てみたい。想像の範疇では、かなりミスマッチな服装になりそうだ。とにかく自分が一番好きな何かを纏って、好きな場所へいきたい。寂しいことに私の人生上、死ぬ前にもう一度ここへ行きたいと思うほど素敵な場所が思い浮かばない。美しい風景が、世の中にはたくさんあるはずなのに。もったいない人生。こんなことを考えながら、明後日にはケロッとした顔でバイトに行かなければならない。死ぬなら好きな人一人一人にお手紙を書きたいし、祖父母よりも早く死んでしまう不孝についてどう責任を取るか、考えなければならない。人に迷惑をかけたくないので、気持ちよくこの世を発つにはたくさんの準備が必要である。あゝ面倒臭い。死ぬには面倒臭すぎて、しかし生き続けるにしてはあまりにも茨の道である。これからどうしようか。死なずして猫にはなれないし、生きている限りこのお荷物な思考回路に悩まされることになる。年を重ねたら、もっと鈍くなれるのだろうか。それはそれで嫌だ。鈍感な自分は、きっと好きではない。どうすればいいのだろう。絵も文章も表現力もない私は、この苦しくて重たい思考と、時には平気な顔して向き合い続けなければいけないのだろうか。この文章の終わりすらも気持ちよく閉じることができない。無情。もし最後まで読んでくれた人がいたとしたら、すごく恥ずかしいけれど、最大の感謝を伝えたい。私のまとまらない思考を吐き出す場を、あなたが読んでくれたことで作り出すことができたのだから。