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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第16回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
電光石火のスピードで噂は広まる。すでに花澤と藤村の一件で、フィリピン流「チスミス文化」は在住日本人にも根付いてしまっているのは承知のところだが、当然、田川の武勇伝も、翌日の昼までに、あっという間に広まっていた。ただ、どういう経路で噂が広まったのかは定かではないが、やれニンジャだの、やれサムライだのなんのと、典型的な日本人像そのままに伝わっていた。挙げ句の果てには、犯人を制圧したどころか、手刀(しゅとう)でメッタ打ちにしたと、空手の師範顔負けの話まで盛り込まれる始末で、結局、正確に事の顛末が伝わった形跡は皆無だった。
ただ、さすがに販売店ではちょっとした騒ぎになり、田川は店長の大牟田に呼び出されてしまった。
「田川君。多分、君ではないとは思うけど…」
言葉にタメを作るように、大牟田は、自分より20センチは背が高い、田川を見上げるように話し始めた。
「なんでも、マラテで日本人が強盗に襲われ、返り討ちにしたとかいう話があってね。その日本人っていうのが、と〜っても君にそっくりなんだよ、風貌が」
「はぁ…」
田川は気の抜けたような返事をし、その場でスッとぼけて見せた。
「ただ、うちではマラテには出入りしないようにと言ってあるし、君はちゃんと毎朝遅刻せずに出勤しているから、まさかそんな場所に出入りしてはいないと思うのだが…、それで間違いないかね?」
「ええ。きちんと社内規定は守っております。ところで、店長。その返り討ちとかいう日本人の風貌が、私に似ているとは、果たしてどんな風貌だったのでしょうか?」
田川はわざとらしく大牟田に尋ねてみた。どうせいい加減な噂話を聞きかじり、説教を垂れただけの話。このまま大牟田から言われっぱなしでは、田川も納得がいかなかった。
「そ、それがだな、田川君。背が高い日本人、っていう話なんだよ。しかも腕力があって、なんとかかんとかって…」
「”なんとかかんとか”ってずいぶん曖昧な話ですね。ということは、店長。その話を鵜呑みになさったっていうことですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだがね、田川君。あまりにも君にそっくりで…」
「店長!多分、あなたの判断ではないとは思いますけど、なんでも最近、妙な噂を鵜呑みにする日本人が多いとか。まさかとは思いますが、店長もチスミスを信じているなんてことは、ありませんよね?」
背が高く、胸板も厚い田川の前では、たとえ店長の肩書を持ってしても太刀打ちできない。まあ、いつも彼らはこんな調子なのだが。
「いや、そういうわけじゃないんだ!話はここまでだ。戻ってよし!」
大牟田は面倒くさそうに田川を部屋から出してしまった。
(またどっかの阿呆が要らない噂流しやがって、クソッ!)
田川は廊下に置かれたゴミ箱を蹴り上げようとしたが、その脚を振り上げることなく、整備コーナーに歩いて向かった。
「ミスター・タガワ」
田川の部下でもある、フィリピン人整備士が、田川に声をかけた。大牟田の話で表情をこわばらせたまま戻ってきてしまった。田川は即座に答えた。
「シンパイナイ、モンダイナイ」
おどけながら、よくKTV嬢あたりがいいそうな日本語で返事をすると、彼らは一気に緊張が解けたのか、声を出して笑い始めた。
(あ〜、いけね。うっかり仏頂面を戻し忘れてたよ)
田川はまた心の中でつぶやいた。フィリピン人と仕事をする際、絶対にしてはならない事の一つに、人前で怒ることが挙げられる。もちろん、今回の田川の行動は、彼らを怒る動作ではなかったのだが、フィリピン人にしてみれば、仏頂面の田川が目に入れば、自分たちに非があるのかと身構えてしまう。田川が悪いわけではないが、そうした細かい配慮が、彼らとビジネスを行う際には大切になる。もちろん田川も心得ていたからこそ、少し大袈裟におどけて見せたというわけだ。もっとも、フィリピン人整備士にしてみれば、すでに田川の武勇伝は耳に入っており、マラテの一件が田川によるものだろうと考えていた。今まで、悪党を制圧する場面など見たことはないが、この日本人ならやりかねないと、彼は身近に田川と接しているだけに、そう感じていたのだ。
「よし!エンジンチェックしよう!テスターつないで」
田川は整備士に声をかけた。先ほどの氷ついた空気は、すでにそこには流れていなかった。マニラの湿った熱気が、まとわりつくような昼下がりの出来事だった。
一方、花澤に帰国を進言し、資金提供も行った藤村は、妙な噂話をビジネス仲間から耳にするや、彼らの前でそれを一蹴した。というより、いつもの藤村の通り、とボケて「あっ、そうなの?」なんて言いながら笑顔で返した。
川崎たちが心配するような、藤村の身に危険が及ぶなどという雰囲気は一切なく、いつも通りにBGCのコンドミニアムから近所のオフィスに足を運ぶような生活を送っていた。
ただ、噂話とは別に藤村は、最近特に、フィリピン在住の日本人実業家の間で、日本に帰国する者が増えていることを懸念していた。それだけではない。今まで羽振りの良かったアジア系の実業家が、帰国するわけでもなく、フィリピンを離れるという姿を目にすることが増えた。それまで、アジアで景気が悪いと言えば日本と言われていたはずなのに、どうも実情は少しだけ異なっている。日本人実業家だけがフィリピンを撤退するのであれば、話の通りなのだろう。しかし、他のアジア諸国の実業家もなぜか、消極的な動きをしている。実際、これまで破竹の勢いだったはずの、かの国の経済に不穏な空気が流れ始めたのは2023年のことだった。実際はもっと前から前兆とも言える現象は起こっていたのだろう。しかし、経済の不調が明らかになった頃には、すでに不調という名の傷は深く、とても癒せるものではなかったのだろう。実際に藤村は数日前、ある実業家から話を聞いていた。
「私は果たして、日本に住むことができるだろうか?」
その実業家は静かに、しかし切実な思いで藤村に話したのだろう。
「私が保証することはできないが、試してみる価値はあるだろう」
いつも仲間たちに見せる藤村とは明らかに違う口調で、その実業家に答えた。そして彼は藤村の言葉に後押しされるかのように、フィリピンから日本へと向かった。
つづく