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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第4回

1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき

 花澤が店に着いた午後5時台は、まだ店で働く女性は一人も出勤していない。代わりに店のスタッフたちは開店準備に勤しんでいる。ボス、つまり花澤の姿に一番早く気づいたのは、店の番頭役でもあるアイヴァンだった。店先で「オハヨゴザイマス」と、独特の訛りで覚えたての挨拶をした。

 「アイヴァン。おはよう。いつものね」

 花澤はまず、アイヴァンに土産物を手渡した。まだ喫煙率がそこそこのフィリピンだが、アイヴァンはタバコを吸わない。代わりに彼は甘党で、日本のチョコレートが好きだった。もちろんマニラでも買うことはできるが、彼らには高価だった。

 「アリガトゴザイマス、ボス」

 アイヴァンは花澤から土産のチョコレートを受け取ると、挨拶と同じような訛りで礼を言った。

 久しぶりに店を長く離れたとはいえ、角田が店を守ってくれたおかげで、店内は何ら変わることなく、帰国前同様のままだった。すかさず角田がオフィスから出てきて、店のスタッフを集めた。全員が整列したところで、角田が声を上げた。

 「おはようございます、ボス!」

 角田の号令に、他のスタッフも声を揃えてオハヨウゴザイマスと挨拶をした。

 「おはよう。みんな、ただいま」

 さすがに花澤の”ただいま”に対し、現地のスタッフたちは返す言葉の”おかえり”は知らなかった。それでも、花澤から土産物を受け取ると、「サンキュー、ボス」と挨拶をし、再び持ち場に戻った。

 「大ちゃん、いつも悪いね」

 「いえいえ。2週間の間の件は先ほど車の中でお話しした通りですが、特に大きな問題はありませんでした。それと、こちらがボス不在の間の売り上げです」

 角田はプリントアウトした、2週間分の売り上げを花澤に手渡した。

 「おっ、いつもありがとう。俺がいない間、大変だっただろ?大ちゃん」

 「それほどでもありませんでしたよ、ボス。今度の”ママ”はしっかりしてますし」

 角田はそう言うと、奥に秘めた言葉を隠しながら苦笑いを浮かべた。彼が言いたいことはわかっている。スタッフが売り上げをネコババしたり誤魔化すことがよくあるからだ。それも売り上げにはじまり、仕入れたはずの酒類、果ては店の備品やスタッフ自身に至るまで、様々が「忽然と消える」のだ。例外なく花澤の店「カーニバル」でも同様のことがあった。前任の”ママ”は、花澤はおろか、角田がいるにも関わらず、大胆に売り上げを誤魔化し、自らの懐に入れていた。しかし、地元の警察に相談するも立件できず、弁護士を挟んだものの、散々揉めた挙句に「I’ll kill you.(お前を殺してやる)」と捨て台詞を吐かれ、ようやく辞めてもらったという、苦い過去があった。だが、この国でビジネスをする以上、こうしたことは大なり小なり起こりうると覚悟しなければならない。フィリピン人を卑下するわけではないが、これが現実であり、俗に言う「フィリピンあるある」でもあった。

 それでも花澤の店はまだいい方だ。なにせ、花澤に加え、語学に堪能でまめな性格の角田がいる。特にタガログ語も堪能な彼の存在は、同業者からも羨望の的だった。反対に、現地スタッフにとって角田は、怖い存在だと思われていた。彼らをコキ使うことは決してないし、フィリピン人に対して御法度と言われる、人前で怒鳴るなどの行為は角田も行うことはない。しかし、隠語のように使えるはずのタガログ語は全て角田に聞かれてしまう。

 かつて、こんなことがあった。スタッフの一人が売り上げを誤魔化そうとした時の話だ。角田はタガログ語が堪能ではあるものの、地方の言葉はわかるまいと、売り上げを誤魔化そうとしたスタッフは、セブ島やレイテ島などで話されるセブアノ語(ビサヤ語)で話していた。だが後日、角田に呼ばれ、売り上げをチョロまかしたことを問いただされた。結局そのスタッフはクビになったのだが、クビを言い渡される前、スタッフは角田に、なぜわかったのかと尋ねた。すると角田は「かつて付き合っていた彼女がタクロバン(レイテ島にある主要都市の一つ)の出身だった」と、スタッフに残念そうな顔をしながら答えた。以来、「カーニバル」での”売り上げ誤魔化し案件”は激減した。

 「でも、売り上げは厳しいねぇ」

 「そうですね…。(為替)レートが悪いままですからねぇ」

 花澤が売り上げデータに目を通すも、芳しくない数字に落胆した。それに対する角田の一言が、全てを物語っている。新型コロナウイルス感染症騒ぎも落ち着いたとはいえ、今度は円安により、日本人観光客のフィリピン渡航に水を差した格好となった。かつては1万円を両替すれば4500ペソに交換できたのが、今では3800、あるいは3700ペソ台にまで進行していた。加えてフィリピンも例外なくインフレや物価高に襲われ、近くて安いというフィリピン渡航のメリットがなくなってしまったのだ。当然、日本人観光客や駐在員目当てのKTVともなれば、ダイレクトに売り上げに反映される。コロナ騒ぎを経て、いまだに過酷な状況から脱することができずにいたのだ。

 「ま、気持ちを切り替えていこう」

 花澤は笑顔を取り戻しつつ、売り上げデータを手にしたまま、オフィスに入って行った。日本でいうところの2畳ほどのスペースだったが、椅子と机を配した個室を設えてある。日中は角田も使うスペースだが、彼は気を利かせて部屋に入ることはなかった。

 部屋に入り、扉を閉じた瞬間、花澤は椅子に腰掛けることもなく天井を仰いだ。売り上げが減っていることを憂いでいるわけではない。スタッフや角田の顔を見てしまうと、店を閉じ、日本に帰ることを言い出せなくなったからだった。今日明日に話すべきことではないが、いずれは全員に告げねばならない。

 (少なくても大ちゃんには申し訳ないよなぁ…)

 花澤は心の中でそう呟くと、大きなため息を一つだけついてから扉を開けた。ちょうど通りかかったスタッフにビールを1本頼んだ、冷えたサンミゲルライトを受け取ると、花澤は栓を開け、一口含んだ。7時の閉店まであと1時間となった、夜6時のことだった。

つづく

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