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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第32回

1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき


 だが、その書き置きを残した恵子と美咲の二人は、花澤が戻った弘明寺からそれほど離れていない、千葉県浦安市に滞在していた。ちょうど美咲が通う学校の創立記念日で休みとなり、せっかくの機会だからと、少し休みを増やし、泊まりがけで東京ディズニーリゾートを訪れていたのだった。

 思春期の少女が、母親とテーマパークへ行くというのは、もしかしたら普通じゃないかもしれない。だが、恵子も美咲も、この日を心待ちにしていた。目的は2つ。1つは久しぶりに”ディズニー”で遊びたかった。そしてもう1つは、女同士、ホテルでゆっくり、これからのことを話したかった。特に、これからのことがふたりとも気になっていた。

 夕方過ぎにはパークから近隣のホテルに戻り、ホテルのレストランで夕食を共にしたふたりは、部屋でパジャマに着替え、ソファでくつろいでいた。

 「ねぇ、美咲。パパとのことだけど」

 恵子は他愛もない話から、夫・哲也との家族生活のことを話し始めた。

 「じゃあ、私から先に話すね。別にママがパパと別れたいって言うなら、私はそれでいいと思う。今だって似たようなもんだし。でも、私は別にパパを嫌いになったわけじゃない。帰ってきても別に話すことなんてないけど。だけど、それとママとパパの間のことは別だしね」

 美咲は、恵子が彼女の気持ちを聞く前に自分の気持ちを吐露した。

 「そっか。それじゃ、ママも話すけど、私だってパパのことを嫌いになったわけじゃないよ。怒って2回、離婚届を突きつけたけどね」

 恵子の話に、美咲は目を丸くして驚いたが、恵子が笑顔で話すのを見ると、一緒になって笑った。

 「パパはね。ちゃんと毎月、生活費を送ってくれるの。あっちでの生活も大変だと思うんだけどね。だから、パパが勝手にフィリピンに行って仕事してひどい、なんて思ってはいないの。だけどさ。私も一生懸命働いて、今じゃ原稿のお仕事がいっぱい来るようになった。そう思うと、お互いにこのまま距離を置いたほうがいいかなって。ただ、それじゃあ美咲が寂しいかな?って思ったこともあったの」

 次第に、恵子の表情が曇り始めた。その表情を、美咲は見逃さなかった。

 「私は寂しくなんかないよ。ママはお家でお仕事してるから、何も変わらない。それに私だって来年は中3だしね。受験はないけど、あんまり成績が悪いと、退学させられちゃうから、寂しいとか言ってられないしさ」

 一人娘ということもあり、恵子は時々、美咲を甘やかして育ててしまったかと後悔することもあったが、娘は立派に成長している。大人のような口ぶりも、しっかりと自分を含め、両親のことを見ているところも。そう思うと、嬉しさのあまり、涙が溢れてしまう。

 「ママもパパも。お互いに頑張ってると思うよ。確か、パパが帰ってくるの、今日だったよね?私たちが帰ったら、一緒に話をしようよ。それで、お互い納得できたら、夫婦を卒業、っていうのもいいじゃない?」

 ”夫婦を卒業”だなんて、中学2年の娘にしては秀逸なセリフだと、恵子は涙を拭いながら笑顔を見せた。一時は目くじらをたてることもあったが、娘のいう通り、夫婦を卒業とは、いい表現だと、恵子は改めて思った。

 「そうだね。そうかもしれないね。よし!決めた!おうちに戻ったら、パパと美咲の3人で話そう!ちゃんと話をして、お互いが納得いく答えを見つけよう。でもさ、美咲。一つだけお願いがあるんだけど…」

 「なに?ママ」

 「明日は”ディズニーシー”に行って、明後日帰ろうね」

 どっちが子どもなのかわからないような恵子の発言に、美咲は思わず吹き出してしまった。

 「もう、ママはほんっとうにディズニー好きだよね〜」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。

 まさか、恵子と美咲がそんな話をしているなんて、花澤が気づくはずもない。彼の頭の中では、彼女の実家がある長野の風景しか浮かんでいないからだ。そこでふたりは寂しく彼女の実家で過ごしている、そんな姿しか想像できない。やはり、自分のせいなんだ。自分がKTVなんて引き受けたばかりに…。花澤は酒の力も作用してか、勝手に自らの気持ちを袋小路に追い詰めてしまっていた。

 「♪俺が〜、♪悪いんだぁ〜。♪フィリピンの〜、♪バカヤロー」

 しまいには酔いすぎて、花澤は意味不明な歌まで口ずさむようになってしまった。方や、離婚のことまで明るく娘と話す妻。方や、酔っ払って自分を責め続ける夫。あまりに対照的な姿など、誰も知らなかった。いや、誰も知りたくもない話だった。

 「今ごろ、家で家族3人、どんなことしてるかなぁ〜?」

 まさか花澤が自分を責め続けているなど、知る由もない、マニラ首都圏、マラテにあるKTV「カーニバル」で”あの連中”は早速集まり、飲んでいた。藤村がほろ酔い気味にそんなことを話していると、川崎はすかさずツッコんだ。

 「おいおい藤さん!なにお花畑なこと言ってんだよ。そりゃ今頃、修羅場だろうって。きっとボスの額に2つくらい傷ができてもおかしくないだろって」

 川崎の考えは実にネガティブだ。彼にはリアルタイムで、花澤の姿を見せてやりたいほどだ。

 「オヤッサン!それはないでしょ、それは。ボスのことですから、ちゃんと奥さんや娘さんと話し合ってるんじゃないですか?」

 いつもの通り、川崎の過激とも言える発言に、本間がブレーキをかける。

 「何言ってんだよ、本間!お前の結婚すればわかるだろうって」

 「まあまあ、川崎さんも本間君も。みんなでボスのこと、応援してるんじゃありませんでしたか?」

 これまたいつも通り。結局このふたりをなだめる役割は田川だ。

 「今夜も盛り上がってますね、皆さん。これ、ボスから。帰国前にみなさんにって」

 タイミングよく角田も現れた。しかも、彼らの燃料と言わんばかりに、エンペラドールという、フィリピン産のブランデーを持ってきて。

 「おっ、エンペラドール。それも、安いやつじゃねぇじゃんか」

 川崎は角田からボトルを受け取ると、ラベルを見て驚いた。彼のいう通り、エンペラドールといえば、地元の人でも気兼ねなく買える安いボトルが有名だが、プレミアム商品も販売している。

 「そうなんですよ。じゃ、ごゆっくり」

 角田は笑顔で彼らが座る、店の端っこにあるボックス席を離れた。角田の姿を見て、田川が微笑んだ。

 「大ちゃんも元気そうで何よりですね、藤さん」

 「そうなんだよ。お昼から店に来てるっていうのに、頑張ってるよね〜」

 田川にニコニコ顔で話す藤村だったが、その姿に気づいたのは本間だった。

 「えっ?まさか藤さん。まだお昼に来てるんですか?ここに」

 「うん。なかなかいい清掃スタッフが見つからなくてね。でもさ。長年ここで働いているおばちゃんがさ、話が面白いんだよ。掃除の仕事も、やってみると悪くないよね」

 なんていいながら、藤村はまた笑顔でサンミゲルライトのボトルをつかんで一口飲んでいる。その姿を見て3人が驚いた。

 「こりゃ参った。実業家が掃除夫か?」

 「川崎さんもやってみるといいよ。楽しいよ〜」

 川崎に指摘されてもお構いなしの藤村だった。

つづく

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