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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第12回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
しかし、噂というのは恐ろしいもので、藤村による提案は当初、フィリピン在住の、一部の日本人界隈で一部捻じ曲がった解釈をされた。ことの発端は週明けの月曜日、午前。BGCにあるPNB(フィリピン・ナショナル・バンク)にふたりが入るところを目撃されたことだった。
このことはふたりともノーガードだった。だいたい、月曜の朝から日本人に出くわすなど想像もしなかったからだ。だが、国内で投資を展開する、ある投資家にその姿を目撃されるや、「あの藤村が、マラテのKTVオーナーとPNBに入って行った」という噂が一気に広まった。蛇足だが、フィリピンには「チスミス」という、誇るべきではない(と思われる)文化がある。チスミスとは、早い話が噂話のことで、彼らはその噂話が大好きなのだそうだ。今回の一件もまた、フィリピン流のチスミスよろしく、一気に広まったか否かは定かではないが、いずれにしても、瞬く間に噂は駆け巡った。
当然、コールセンターに勤務する川崎と本間の耳に入るまで、それほど時間を要しなかった。もちろん、電光石火、というほどではなく、翌日の夜、マカティにある日本人街での出来事だったが。
久しぶりにふたりは仕事帰りに日本人街にあるお好み焼き屋に入っていた。もちろん、ふたりの今夜の話題は、先日の「カーニバル」での話だった。
「まあ、結局藤さんがボスを助けておしまいって話だとは思うんだけどさ」
川崎は何もかもお見通しのような口ぶりで、あの夜の出来事を振り返っている。
「そんな単純な話っすか?オヤッサン」
一方の本間は、ふたりのことが気になって仕方がなかった。
「あれ?なんだ『カーニバル』の常連さんじゃないかぁ」
突如彼らの前に現れたのは、マラテの主とも噂される、フィリピン在住歴20年弱の津田だった。彼のように、長年フィリピンに住む”自称”フィリピン通は、色んな意味で「ベテラン」と称される。とりわけ近年では、とりわけ地元女性にベテランと言われる際は、あまりいい表現ではないことの方が多い。津田もまさにそうした「ベテラン」の一人だ。だいたい「ベテラン」が嫌われる理由は実にシンプル。偉そうでケチ、そして知ったかぶりで、金の匂いがすると、すぐにいっちょ噛みしたがる。まあ、別にフィリピンに限らず、どこにでもいそうなタイプだが、フィリピンというお国柄も手伝い、ますます悪質に見えてしまう。当然、川崎と本間も津田を警戒していた。
「これはこれは津田さん。お元気そうで」
わざとらしく丁寧な口調で挨拶をする川崎だが、当然言葉の節々には毒気を感じる。
「よくいうよ、まったく。ところで、あんたらがよく出入りしてる『カーニバル』の社長だけどさ。最近、金の無心でもしてるのか?あんたらの仲間から」
そう話し始めると、津田はさりげなく彼らの席に腰掛けた。ちゃっかりグラスなど用意し、彼らのサンミゲルライトを注ぎ始めた。
「どういう話だよ?一体」
あからさまに川崎は不快感を顔に出した。すると津田はサンミゲルを一口ゴクっと飲むと、澄ました顔で話した。
「な〜んだ、知らないのか?昨日、BGCの銀行から、ふたりが出てきて、なんでもでかいバッグを抱えて出てきたらしいぜ。ありゃ、借金だって、もっぱらの噂だぞ。ほら、あんたらの仲間の一人で、金持ちいただろ?」
まあ、知ったかぶりがつかむ情報というのは、話に尾ヒレがつき、おまけに情報の一部に相違があるものだ。例外なく、津田が彼らに話した噂話も、話の一部がおかしい。いつの間にか、銀行から出てきたところを目撃され、しかも現金を入れたであろうバッグの存在まで追加されていた。
「それ、津田さんが目撃したの?」
早速噛みついてきたのは本間の方だった。川崎はまだこうした男に免疫があるが、本間はまだそこまでの免疫を身につけていない。飲み仲間とはいえ、自分の好きな仲間に対し、腹の立つ言い方をするものだと、はらわたが煮えくり返っていた。
「別に。でも、もっぱらの噂だぜ」
そういうと、津田はサンミゲルのボトルを掴もうとした。するとそれを川崎が掴み返した。
「いやぁ、楽しい情報、どうも。情報料はこんなもんでしょ?悪いが俺たち、晩飯の途中なもので…」
言葉は冷静だが、明らかに川崎の目の奥が、怒りで震えている。それを察したのか、気付かぬふりをしているのか、津田はゆっくりと席を立ち上がった。
「変な展開にならないといいな!んじゃ、俺はこの辺で」
ニヤリを不敵な笑みを浮かべ、津田は店を出て行った。
「あの野郎、本気(マジ)で許さねぇ」
川崎は、掴んだボトルをそのまま振り回すんじゃないかというくらいな表情を見せたが、すぐに落ち着いたようだった。
「これだからベテランは困りますよね」
うっかり本間はそんなことを言ってしまうと、川崎と目があってしまった。
「まさか、俺にもそんなふうに思ってないよな?」
フィリピン在住歴10年超の川崎は、同じく3年かそこらの本間を、睨むことなくじっと見つめた。
「ま、まっさかぁ!オヤッサン。オヤッサンはあんなのとは違いますよ」
「そうだよな!まさかな!そうと分かれば、清めの一杯だ!すみませーん!サンミゲルライト、2本追加ね〜」
動揺する本間を尻目に、川崎はニンマリとした笑顔でビールを頼んだ。
まさかの「チスミス」に、気づいていないのはどうやら、当事者のふたりだけだった。火曜日夜の時点で、川崎とは本間が知ることになったのだが、田川はさらに時間差で情報を聞いていた。
偶然、セダンの修理依頼に伴う入庫があった火曜日の朝。田川の元に車を運んできたのは、フィリピン人ドライバーではなく、日本人オーナー本人だった。彼は日本のとある都市銀行のマニラ支店に勤める職員だった。噂話は銀行間を経由し、その職員にもたらされたらしい。
「最近、日本人経営者の方も色々と大変とみえる」
彼は、田川と不具合のある箇所の確認をしつつ、他愛のない話をし始めたのだ。
「やっぱり、例の感染症とかですか?」
「まあ、そんなところみたいなんだけどね。でも、昨日の朝、KTVのオーナーが、もう一人の日本人とPNBに入って行ったのを見た人がいましてね。金の無心じゃないかって、もっぱらの噂ですよ」
田川は職員が話す、その話の内容から、花澤と藤村のことではないかと察していた。
「へぇ、そうなんですか。でも、借りられたのなら、よかったんじゃないんですか?」
「それならいいんだけどさ。その一緒に行ったのが、これまた謎だらけの日本人らしくて、何やって稼いでるのか知らないっていうんだからね〜」
その一言で、田川は確信していた。間違いない。花澤と藤村は昨日の朝、PNBに行ったのだろう
「そんな人いるんですかぁ!私もお金貸してくれるかなぁ?」
「ハハッ!よしとけって!まさか田川さん、お金ないの?それとも住宅ローン?オートローン?相談してよ、なんてね!」
銀行員とかいうお堅い職業のくせに、随分と調子のいい男に内心呆れつつ、田川は「冗談ですよ〜」なんて話を合わせている。どうやら早いうちに真実を確かめといた方がいい。そう思った田川の方が、川崎たちより行動は早かった。
つづく