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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第29回

1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき

 「いやぁ、大ちゃん。今日は本当にありがとう。朝から夜中まで、ぶっ通しで悪かったね」

 閉店を迎えた「カーニバル」の店内で、花澤は十数時間働き詰めの角田を労った。明らかな過剰労働だったが、これは角田からの希望だった。今まで、何度か同様の経験があったとはいえ、通しで仕事内容を確認したかったという。

 「いいえ。いろいろと確認ができました」

 「本当にありがとう」

 いつも通りの返事をする角田に、花澤は右手を差し出した。ふたりが出会って以来、最も固い握手を交わした。

 「飛行機、何時でしたっけ?」

 「昼の3時前。羽田には夜の8時ごろに着く予定だけどね」

 「じゃあ、少しは休めそうですね」

 角田はチラッと腕時計に目をやった。夜中の3時を回っている。午後の便であれば、仮眠くらいは取れるだろう。

 「そうだといいんだけどね。まあ、冷蔵庫の中身は空にしたし、水回りはカビが生えないようにしたつもりだけどね」

 半年ほど部屋を留守にする花澤は、南国特有の部屋の痛みを気にしている。それを聞いて角田がニヤッと笑った。

 「大丈夫ですよ、ボス。ちゃんと鍵を預かっていますから、定期的に掃除はしておきますよ」

 「本当にすまないね。部屋を返しちゃえばよかったんだけどさ。なんか帰る場所が無くなりそうな気がしてね…」

 「ボスが心配するのもわかりますよ。それより最近、この辺で空き部屋が減ってるっていう話らしいんですよ。意外ですよね。ですから、ボスが部屋を返しちゃうと、戻ってきた時、一時的に部屋が見つからないっていうこともありそうなんですよ」

 「やっぱり、そうだったんだ…」

 角田の話に、花澤は妙な胸騒ぎを覚えた。確かに角田のいう通りだ。しかし不思議な話だ。物価高やドル高で、フィリピン国ないでもとりわけマニラ首都圏は生活がしにくく、賃貸物件も例外なく賃料が上昇中。ともなれば、ローカルの住民から順に、安い物件や郊外への転居を始める。それは間違いない。花澤が住むコンドミニアムの階に住んでいた、ローカルの住民は立て続けに転居した。ところが、転居後、あっという間に部屋が埋まった。しかも転居してきたのはローカルの住民ではない。かと言って、欧米人でもない。入居したのはアジア系の住民だった。もちろん、日本人ではない。花澤が気づいた時には同じ階どころか、上下の階にも入居が相次ぎ、マニラでは聞き慣れない言葉が、廊下やエレベーター内で飛び交っている。角田に言われるまで特に意識していなかった。

 「そうだった、とは?」

 角田は、花澤の表情が曇ったのを見逃さなかった。

 「うん。大した話じゃないかもしれないけど、元々俺が住んでるコンド(ミニアム)は、フィリピン人がたくさん住んでたんだけどさ。今じゃアジア系ばかりなんだよな」

 「ああ、その話ですか。最近、マラテに結構進出しているじゃないですか。そこのスタッフとかじゃないんですか?」

 角田がいうことも一理ある。とりわけマラテを中心に、アジア系の飲食店が増えている。そこの従業員が近くのコンドミニアムに住むことはあり得る話だ。ましてや、近隣の部屋に空室ができれば尚更だ。

 この日、花澤のコンドミニアムの話はそれで終わり、最後の引継ぎの話をした。しばしの別れは辛いが、角田は朝から深夜まで働き詰めで、明日の仕事もある。これ以上引き止めるのはやめにし、次回の再会を約束するかのように、再び握手を交わした。

 花澤は夜中のマラテの街を歩きながら、しばしの別れを惜しんだ。徘徊する客の姿も消え、きらびやかな照明や看板の灯りが消えた通りは薄暗く、下水とも生ゴミともいえぬ不快な匂いを時折感じるが、彼は心の中で、寂しさのようなものを感じていた。こんな街でも、楽しいことはたくさんあった。角田という、頼もしいビジネスパートナーの存在。飲み友達から、今や大スポンサーとして自分をサポートしてくれる藤村。そして、川崎、本間、田川という、常連客というより、今や親友のような、飲み友達のような、大切な存在。花澤のフィリピン進出は、人に恵まれたと言っても過言ではない。しかし、彼には家庭があり、今はその修復に力を注がねばならない。そして日本でのビジネスについても同様だ。双方を天秤にかけることはできない。どちらも同じくらい大切で、優先すべき関係だ。そう思うと、涙こそでないものの、コンドミニアムに着くまでの間、彼は何度か大きく深呼吸した。このマラテの、お世辞にも美味しいとは言えない街の空気を。

 翌日の出発は、あっけないものだった。いつもなら見送りに車を出してくれる角田は、仕事の都合で彼を見送ることができず、久しぶりに通りでタクシーを拾った。スーツケースとともに後席に乗り込むと、タクシーは空港へ向けて走り出した。

 朝夕の恐ろしいまでのラッシュに比べ、日中は穏やかな車の流れが続く。見納めでもないのに花澤は、車内から外の景色をスマートフォンに収めた。やはり名残惜しかったのだろう。スマートフォンをポケットにしまうと、深夜のマラテを歩いた時と同じように、一度だけ深呼吸をした。

 空港までのタクシーの車内でも、あるいは空港ターミナルに到着し、チェックインカウンターを並んでいる間も花澤は、誰かから連絡が来ないだろうかと、パスポートとともにスマートフォンを握りしめていた。しかし残念なことに、誰からも連絡はなかった。実は誰もが、何度となくスマートフォンを手に取ると、通話をためらっていたのだ。もし自分が電話をかけてしまったら、花澤はフィリピンを発つことをやめてしまうのでは?と思ったからだった。子どもじゃあるまいし。そんなことはありえないと思いつつ、つい通話することができなかっただけだった。

 しかし、これで良かったと思ったのは花澤本人だった。彼らはきっと今夜、角田を尋ねに「カーニバル」に来るだろう。そして「ボスが日本に行ってスッキリした」などと言ってくれた方が、こっちもスッキリすると思った。ビジネスクラスラウンジで彼は、そんなことを思うと、不意に表情が緩んだ。それは決して、今年は飲み納めといわんばかりに、ラウンジの冷蔵庫から取り出したサンミゲルライトのせいではない。”あの連中”が赤い顔をして飲んだくれている姿を思い出したからだった。

 しばらくすると、搭乗開始の案内が流れてきた。6ヶ月で全てを解決してくる。花澤は席を立った瞬間、心の中で自分を鼓舞するように「よし!」と叫んでみた。胸の真ん中あたりに、熱いものを感じた瞬間だった。

 かくして花澤は午後3時前の航空便で東京・羽田空港へと飛び立った。

つづく

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