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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第34回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
同じ頃、ニノイ・アキノ国際空港の近くにある「ベルモントホテルマニラ」をチェックアウトした立花は、前で客待ちをするタクシーに乗り込んだ。運転手に行き先を告げるが、浮かない表情で首を横に振る。立花がどう説得したかはわからないが、結局タクシーは彼女を乗せたまま走り出した。
ホテルが位置する「ニューポート」と呼ばれるエリアは、ニノイ・アキノ国際空港第3ターミナルに近接した場所で、最近整備された、近代的に整えられた場所となっている。ホテルや商業施設に加え、コンドミニアムも立ち並ぶ、美しい街並みが広がる。
しかし、ひとたびそのエリアを離れれば、簡素な、トタン屋根の家が軒を連ねる、典型的なフィリピンの風景が目に飛び込んでくる。おそらく、多くの日本人にとって、フィリピンと言われてパッと浮かぶのは、そうした貧しく発展途上にある国、フィリピンという姿だろう。もちろんそんなはずはないのだが、日本で報道されるフィリピンといえば、治安が悪く、貧しい人が多い国というイメージの映像や画像が多い。それもフィリピンの一面ではあるが、一方で近代的に整備された街も続々と誕生している。この点は決して見逃してはならない、フィリピンのこれからの姿だ。
とはいえ、立花を乗せたタクシーは、そうした近代的な街を素通りするかの如く、大通りを北上して行った。
トンドという地名を聞き、ピンとくる人はフィリピン通かもしれない。あるいは人気漫画「ONE PIECE」の主人公、ルフィの生まれた場所のモデルともいわれ、その関係で知ったという人もいるだろう。かつてゴミの集積地で、山のように積み上げられたゴミがくすぶり「スモーキーマウンテン」と呼ばれる場所があるのも、このトンドだ。もちろん、すべてのエリアが貧民街だというわけではないが、これもフィリピンの一面だと言わんばかりに、時折メディアで取り上げられる街でもある。蛇足だが、観光客が興味本位で立ち入る街でないということだけは確かだ。しかし立花を乗せたタクシーは、そのトンドを目指している。タクシーに乗り込んだ時、運転手が首を横に振った理由はここにあった。できることなら向かいたくない先であるばかりか、外国人女性、それも日本人が立ち入る場所ではないと運転手自身が咄嗟に思ったからでもあった。しかし立花は、そんな必要もないのに、運転手に100ペソ札を何枚か握らせ、半ば強引に向かわせた。
しかし、昨夜からこの立花という女、気になる点が多い。花澤とぶつかったことはともかく、紛失したロケットには、花澤が見た通り、マイクロSDカードが収められていた。そんなペンダントヘッドを持っているというのは、彼が想像した通り、まるでスパイ映画さながらで、非常に怪しい。さらに、結団式に出席したはいいが、自分以外の職員はインドネシアへと向かった。おまけに行き先の異なる集団と、集合写真にまで収まっている。
実はそれだけではなかった。彼女は確か、スーツケースを持っているはずだった。男性職員は結団式に遅れて入った立花に「君のスーツケースは先に届いているから」と言っていた。だが、タクシーから降りた立花は、バックパックひとつしか持っていない。それは出国時も同じだった。
立花は、トンドハイスクールに程近い、スーパーマーケットの前でタクシーを降りた。住居が立ち並ぶというより、ひしめき合うという言葉が似合いそうな街並みは、お世辞にもキレイとはいえない。無数に伸びる電線は、電柱のところで絡み合う毛糸のように、複雑な線の集合体を形成している。ただ、多くの日本人がメディアで目にする、貧民街トンドの風景というよりは、フィリピンの典型的な街並みと表した方が正しいだろう。
もちろん、日本人からしてみれば、キレイとは言い難い街並みや、無数の電線などに驚くだろうし、彼女が降りたところにあるスーパーマーケットの入り口には、銃を持つセキュリティガードが立っている。ただし、これもまた、フィリピンではよく見かける風景だ。
立花はそうした風景を見慣れた一人なのだろう。周囲を見回すこともなく、近くの集合住宅らしき建物に入って行った。
扉をノックすると、中から出てきたのは日本人の男女だった。日焼けした顔を見るに、最近フィリピンを訪れたふたりとは思えない。立花は顔写真の入ったIDカードをふたりに見せると、部屋の中に案内された。
「ようこそトンドへ」
男女のうちの女性の方、具志堅杏果(ぐしけん きょうか)は、笑顔で立花を迎えた。彼女は緊張しているのか、軽く会釈しただけだった。
「緊張しなくていい。たいした”任務”ではないよ」
男性の方、仲宗根敬司(なかそね けいじ)も立花をリラックスさせようと、優しく言葉をかけた。このふたり、苗字の通り、いずれも沖縄出身だった。偶然の一致ではあるが、トンドには比較的溶け込みやすい容姿をしている。
3人はそれぞれ、名前だけの自己紹介をした。その後具志堅は立花に、瓶入りのコーラを勧めた。立花はそれを受け取ると一口含んだ。
「荷物は届いている。スーツケースだったね」
仲宗根は立花に、スーツケースが置かれた奥の部屋を指差した。開いている扉から、高さ50センチほどの黒いケースが見える。
「ありがとうございます。それで、仕事は今日からですか?」
「そんなに焦ることはないわ、立花さん。少なくても今週は、私たちと街を把握してもらうだけだから。”調査”はそれからでも遅くないから」
焦る立花を制したのは具志堅だった。ところで、”調査”とは一体何だろうか?
「それより、昼食はまだだろ?いきなり現地の食い物というのもなんだから、”マクド”にでも行こう」
仲宗根はふたりを連れ、建物からほど近い場所にあるマクドナルドを目指した。
つづく