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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第31回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
昼間ほどではないものの、この時間の出発ロビーは、北米・ハワイ便を中心にフライトがあり、そこそこに賑わっていた。団体客の姿も見かけられ、花澤の「耳穴の女探し」は少々難儀となっていた。ましてや、相応の大きさのスーツケースを引きずりながらの人探しは、さらに難儀だった。
結局、花澤は女性を見つけることができず、空港を後にすることにした。もしかしたら、いつか会うことができるかもしれない。いや、ロケットの中に入っているメモリーチップを読み取れば、何か女性に関するヒントが含まれているかもしれない。彼の頭の中で、スパイ映画さながらの光景が浮かんでいた。
(実は、彼女は某国のスパイだった、なんてな)
花澤はそんなことを想像しながらタクシー乗り場へと向かった。しかし、「なんてな」などと呑気なことを言ってられなくなるのを、この時の花澤が気づくはずもなかった。いや、こんなスパイ映画まがいの話など一気に吹き飛んでしまう出来事が、この後待ち構えているとは…。
羽田空港に降り立ち、一杯やったり、耳穴の女との遭遇があったりしたせいで、弘明寺にある彼のマンションに着いたのは、深夜0時近くだった。
いつものように鍵を開け、中に入る。当然真っ暗なのだが、電気をつけ、ふと目に入ったダイニングテーブルを見てギョッとした。
あなたへ
少しの間、美咲と家を離れます。後日連絡します。
恵子
きっと、ダイニングにいつも置いてあるペンで走り書きしたのだろう。いつも綺麗な楷書で字を書く恵子らしい文字だったが、内容はシンプルすぎるというか、どう解釈していいかわからないものだった。
「えっ?どういうこと?」
もちろん花澤は、事前に自分が帰国することを恵子に伝えていた。それも、電話で。恵子は電話で話した際、わかったと返事をしていた。それなのに、書き置きだけを残し、娘と共に「家を離れる」なんて。
かといって花澤は、怒りや呆れる気持ちも抱くことなく、ただ、心に穴が空いたような気持ちでその場に立ち尽くした。
一方、羽田空港で、花澤とまさかの衝突をしてしまった女性、立花遥(たちばな はるか)は、JICA(独立行政法人 国際協力機構)の支援事業の関係で、フィリピンへと向かうところだった。花澤と衝突した際、彼女が走っていたのは、出国前の打ち合わせに間に合わせるためだった。
花澤に謝罪をしてからも立花は、打ち合わせが行われる3階の会議室「富士」へ向かって走った。息を切らしながら、扉をノックし、中へ入ると、会議室内にはすでに、多くの職員が着席していた。
「遅れまして申し訳ございません」
立花が謝罪すると、職員のリーダーと思しき男性が笑顔で彼女を迎えた。
「いや、むしろ急かしてしまって申し訳ない、立花君。”麹町”から直行だっただろ?」
「はい」
彼がいう麹町とは、JICAの本部を指している。実際、立花は本部から直行していた。夕食も食べずに。
「君のスーツケースは先に届いているから。打ち合わせは終わったけど、”結団式”はこの後始まるから、それに出てくれればいい」
「あの、打ち合わせの内容は?」
「いや、大丈夫だ。気にしなくていい」
打ち合わせの内容を気にする立花に男性は、気にしなくていいとだけ告げると、会議室内の空席を指差した。
「あそこに座って」
立花は男性に促されるままに、空席に腰掛けた。
ほどなくして、結団式が始まった。お偉いさんが何人か現れ、手短にスピーチを行うと、あっという間に式は終わった。
「出発前に集合写真を撮ります!」
先ほど立花に声をかけた男性が、一団に声をかけた。すると参加者が全員、席を立った。会議室のかたわらに集まると、一眼レフカメラで男性職員が写真に収めた。
「それじゃ、チェックインカウンターへ向かいま〜す!」
出発の時間らしい。一団は、ゾロゾロと会議室を後にした。ところが、その中にあって、立花だけはなぜか、周囲の参加者と一言も交わすことなく会議室を後にしたのだ。仲間はずれ?いや、そうではない。もちろん、いじめられているというわけでもない。
「西ジャワ州って、ジャカルタからどこくらい離れてるんだ?」
立花とは親子ほど歳が離れているんじゃないかという男性が、一緒に歩く男性に尋ねている。
「どのくらいでしたっけねぇ。でも、当分はジャカルタ滞在らしいですよ」
どうやら、インドネシアへの支援事業らしい。確かに、深夜0時過ぎにジャカルタ行きのANA便が控えている。ということは、立花もジャカルタへ向かうのだろうか?
「あれ?あなたもインドネシアに行くの?」
若い女性が立花の姿に気づき、彼女に声をかけた。
「い、いえ。私は違います」
「そうなんだ」
立花が同じ行き先でないことを知ると、その女性は、知り合いであろう女性たちの集団に向け、早歩きで向かった。
なぜ立花は、インドネシア支援事業の結団式に参加したのか。彼女も結団式の後、写真に収まっている。だが、パスポートとともに彼女の手に握りしめられているのは、マニラ行きのチケットだった!
まさかの「フィリピンつながり」となってしまった、花澤と立花。もちろん、空港で体同士がぶつかり、花澤は彼女が忘れていったロケットを手にしている以外、接点は全くない。だが、立花はまだ、自分がロケットをなくしていることに気づいておらず、一方の花澤といえば、帰宅後、ダイニングテーブルの上に置かれた、恵子の書き置きに衝撃を覚え、この時、ポケットに入れたままのロケットの存在をすっかり忘れてしまったのだった。
さすがに、ずっと立ち尽くしていても仕方がない。花澤は寝室に戻ると、着ていたアウターをハンガーにかけ、クローゼットにしまった。そして部屋着に着替えると、再びダイニングに向かい、冷蔵庫の扉を開けた。飲み直すつもりで冷蔵庫を開けたが、母子ふたりの生活では、冷蔵庫にビールが入っていることなどない。花澤は扉を閉め、食器棚の隣に置かれたサイドボードの引き戸を開けた。飲みかけのウイスキーが残されている。グラスと一緒に取り出すと花澤は、氷も入れず、ウイスキーをグラスに注いだ。
自分が帰国することを知っていながら、なぜ恵子は美咲と家を出たのか?それも、少しの間、家を離れるとは?短い言葉ながら、さらにその言葉を分割しては、花澤はその言葉に隠された意味を探ろうとした。
花澤がフィリピン行きを決意して以来、恵子は二度、彼に離婚届を突きつけた。その都度話し合いを繰り返し、二度とも離婚届に署名・捺印することなく、その場で破り捨てた。
今回はどうか?離婚届はテーブルに置かれていない。代わりと言ってはなんだが、書き置きがある。短いコメントが書かれた、書き置きが。
リビングの照明はつけず、ダイニングの照明だけの、薄暗い部屋の片隅で、花澤はちびちびと、ストレートのウイスキーを口にした。これから関係修復をしようという矢先、まさか出鼻を挫かれるとは…。様々な想いが交錯する中、彼の脳裏を書き置きの言葉が何度もループされた。
つづく