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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第11回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
藤村の提案は、資料のボリュームに反し、実にシンプルな内容だった。内容はたったの3つ。
1つ目は花澤に帰国を促すものだった。ただし、半年限定。その半年でまず、家族関係をできる限り修復し、同時に日本でのフィリピン産コーヒー豆の販路を開拓する。
2つ目は角田次第ではあるが、彼への提案だった。それは、花澤の帰国中「カーニバル」の店長として店を守ることだった。当然、その分の給与は支払われる。現在の倍近くの金額だった。
3つ目は2人への、藤村からの提案だった。それは、これら2つのことを提案するために、彼自身、資金提供をするというものだった。しかもその額に、花澤だけでなく、角田まで驚かされた。日本円で2000万円出すというのだ。
「ちょっと待ってよ、藤さん。1つ目はまだしも、2つ目は大ちゃん次第だし、3つ目はまずいよ〜」
花澤はあからさまに、藤村からの資金提供に困惑していた。花澤にしてみれば、藤村は店の客であり、同時に飲み仲間のような存在だ。仲間意識が強いのは嬉しい限りだが、そこまでしてもらう義理はない。別に嫌だというわけではないのだが、素直に受け入れていいのかという、一種の罪悪感のようなものが頭をよぎった。
「ボスはともかく、角田さんはどう思う?」
藤村からの尋ねに、角田は数秒考えてから答えた。
「はい。よろしくお願いします」
角田の素直な返事に、花澤は横目で角田を見てしまった。この男、本当に素直だと。
「OK。じゃあ、後はボスだね。どう?悪い提案ではないと思うけど」
「そりゃ、悪い提案じゃないと思うよ。でもさ、藤さん。あんたの持ち出しで終わるかもしれないよ。それじゃ、藤さんに何のメリットもないじゃないか」
花澤のいう通りかもしれない。提案だけをみる限り、藤村にメリットがあるとは思えない。いくら飲み仲間とはいえ、あまりにも花澤と角田にメリットがありすぎて、何か裏があるのではないかと疑いたくなるくらいだ。
「メリット?ああ、大丈夫。ちょっと思い出してよ、ボス。コーヒー豆の件だって、私が勧めた話だったじゃない。っていうことは、私も参加している案件だし。利益はちゃんと分配してるから大丈夫。それ以上に、「カーニバル」は絶対に畳まないで欲しいんだ。そりゃ、今は経営が厳しいと思う。マラテだけじゃなくて、マカティでも日本人の経営者が店仕舞いを余儀なくされている。私の仲間も、何人も日本に帰ってしまった。ボスだって知ってることじゃないか」
いつも通り、藤村の優しい口調で花澤に話しかけてはいるが、口調とは裏腹に、手に力がこもるタイプなのか、ずっと拳を握ったままだった。
「そう言われちゃあ、何の反論もできないけどさぁ…」
「本当は、私の仲間みんなに戻ってほしくはないよ、日本に。でもさ、ボス。家族は大切にしないといけないよ。角田さんだってそう思うでしょ?」
藤村の問いかけに、角田はとっさに、首を縦に振った。藤村が言いたいことは、角田なりに理解しているつもりだった。彼自身、藤村からの提案は悪くなかった。花澤からもらっている給料に不満があるわけではない。むしろフィリピンで滞在するには十分な額をもらっている。しかし、その倍額と言われれば、悪い話な訳がなかった。加えて、花澤の家族のことが解決するかもしれないとなれば、何の不満もない。
「藤さん…。俺、藤さんにここまでされたら、一生頭が上がらないよ…。別にそれでもいいんだけどさ。でも、なんか藤さんに悪くてな…」
どうやら藤村にもメリットのある話であることは理解できた。しかし花澤は、藤村の提案を受け入れる気持ちでいるものの、本当にこれでいいのかという気持ちは払拭できずにいた。
「それなら、今までみんなに黙ってたことを一つ話すけど、私はこれまで、順風満帆な人生を歩んだ訳じゃないんだ。たくさん失敗したし、たくさん裏切られた。自分では気付かぬうちに、たくさんの人を裏切ったり、傷つけてきたかもしれない。犯罪にこそ手を染めてはいないけど、多額の借金で会社を潰したことだってある。だからわかるんだ。経営者のつらさだったり、事業を続けることの難しさや大切さをね」
まさかの藤村からの告白に、花澤は不意に涙が溢れてきた。最初は気軽な提案だとばかり思っていた。しかし、ここまで真剣に、自分たちのことを考えてくれたんだと思うと、これ以上恐縮ばかりもしていられない。
「藤さん。すまない。本当に、すまない…」
花澤が伸ばした右手に、藤村は両手で握り返した。すると角田が同じように手を伸ばし、3人で握手を交わしていた。藤村も笑顔の奥でうっすらと涙を浮かべ、角田は何度も頷いた。
「ボス。そうと決まれば、善は急げだ。週明けに早速、一緒に銀行へ行こう。それと、帰国の手配を。帰国の段取りができれば、あとはこのお店のこと。角田さんを交えて3人で打ち合わせしよう。それと、日本での仕事のこともね。じゃ、お店の準備もあるでしょ?私はもう帰るよ」
藤村が席を立つと、花澤と角田も席を立ち、交互に藤村と握手を交わした。
「俺が帰る前、またみんなで会えるよね?」
藤村が入り口の扉を開ける前、花澤がそう尋ねると、藤村は振り返った。
「もちろん。あっ、私もなるべく遅れないように来るよ」
藤村はそういうと、いつものとぼえた笑顔を残して、店を後にした。
改めて資料に目を通すと、どう見ても藤村が得するような話に思えない。だが、彼がそういうのだから、ここは素直に受け入れるべきだとも思った。ただの仲間思いなのか、それともお人好しなのか。いや、藤村のいう通りならば、ある種の救世主、とでもいうべきか…。
「ボス。ひとまず、開店準備、進めちゃいましょう!今夜は団体さんの予約が入ってますからね!」
角田は目を潤ませながらも、自分に気合いを入れるように、語尾に力を込めた。
「おぅ!今夜は呼び込みにも力を入れさせるかぁ!」
花澤が見せたやる気に、角田は笑顔で答えた。この数週間、角田の心中で抱えていた、モヤモヤとしたものが一気に吹っ切れたような、そんな瞬間だった。実は、それは花澤も同じであり、それらをこっそりと観察していた藤村も同様だった。
藤村は店を出るなり、Grabを呼んだ。バー・マンスのタクシーは、いつも以上にぼったくりが横行している。藤村も例外なく、タクシーには乗らず、配車アプリのGrabを利用していた。
ほどなくして彼のピックアップにやってきた。BGCへの帰途、藤村は花澤と角田が見せた表情を思い返していた。素直に受け入れてくれたことに対し、実は彼も感謝していた。
藤村は、このマニラ首都圏で、日本人がどんどんとフィリピン生活から脱落し、帰国を余儀なくされている現状を憂いでいた。できることは限られている。そんな中でも「カーニバル」と花澤・角田の二人は失いたくない。理由はシンプルかつ軽いもののように思えるが、この出来事が仲間の絆を深めるきっかけになるとは、当人たちも気づきようがなかった。
つづく