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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第10回

1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき

 花澤は昼まで眠り、起き抜けに湯を沸かした。いまだに水道の水を直接飲むことができないフィリピンでは、浄化した水を購入することは必須となっている。むしろ地球上では、蛇口を捻ってそのまま水が飲める国の方が圧倒的に少ないのだが、近代化が進むフィリピンにおいても、水道事情は以前のままだった。これが外国人だけということであれば水が合う、合わないの問題で済むのだが、フィリピン人ですら飲めないともなれば、数多く存在する、フィリピンの課題の一つだと言える。

 湯が沸き、花澤はカップにインスタントコーヒーの粉を入れると、そこに湯を注いだ。シンクの隣にある水切りからスプーンを取り出し、軽くかき混ぜてから一口すすった。ダイニングテーブルには、朝買ったパン・デ・サルが置かれている。紙袋から一つだけ取り出し、彼はおもむろにかぶりついた。

 椅子に腰掛け、彼は昨夜のことを思い出していた。いつもはふんわりした雰囲気の藤村が、やけに真剣に店のことやら日本でのコーヒー豆のビジネスの件、ひいては妻子のことまで気にかけてくれるのは嬉しいが、面倒な話にならなければいいと、そう思わずにはいられなかった。

 しかし、花澤が心配する一方で、藤村の行動は素早かった。夕方5時に「カーニバル」で相談すると決めるや、午前中から早速パソコンで資料の作成を始めていた。よくいえば「仲間想い」。だが、悪くいえばただの「お節介」。普段のマイペースさが感じられないほど、藤村の鮮やかなキーボードさばきが冴え渡っている。

 昼には花澤向けの資料が完成し、藤村は部屋の端に置かれているプリンターで資料を出力し始めた。

 窓の外にはBGCの近代的な街並みが広がる。見下ろせば、緑豊かな公園まで望むことができる、フィリピンらしからぬ眺望が、藤村が住むコンドミニアムから楽しめる。ごく限られた人々だけに与えられた特権のような光景だった。もちろん、まだ”連中”の誰も目にしてはいない。プリンターは印刷を終え、動きを止めたが、藤村はキッチンに向かい、コーヒーメーカーのジャグを取り出すと、カップにコーヒーを注いだ。花澤が扱う、フィリピンで生産されているコーヒー豆を淹れたもので、藤村も気に入っている。カップを片手に、彼は窓際の椅子に腰掛けると、カップを口に運んだ。

 (ボス、大変だと思うけど、ここが正念場だから…)

 藤村は遠くに広がるマニラ首都圏の街並みを眺めながら、ゆっくりとコーヒーを味わった。

 同じ頃、田川は午前中の整備を終え、フィリピン人の仲間とともに、近所の食堂へ向かった。フィリピンには、いわゆるローカルフードを扱う食堂がたくさんある。それらにも細かく種類が分かれているらしいが、日本人にはその違いがよくわからない。大きく分ければ、移動式屋台か、店舗を構えているか。そして店舗を構える”ローカル食堂”にも種類がある。今回、田川たちが立ち寄っている店は後者、店舗を構えている方のローカル食堂だった。

 田川は仕事中、日本人同士で昼食に出ることを控え、できる限り現地雇用のフィリピン人整備士と一緒に食べに行く。互いに同じ車の整備をするもの同士、同じ釜のメシを食うではないが、できる限り行動をともにすることで、チームワークや互いの信頼関係構築につながると考えている。結果、若手からは頼りになる兄貴的存在となり、ベテランからも常に一目置かれる存在となっていた。

 いつも通りに田川は、英語で他愛のない会話をしながら昼食を食べているが、心の中では昨夜のことが気になっていた。初めてみる藤村の姿。花澤は店を畳み、日本に帰国するのだろうか?短い会話の、それも断片を一つ一つを繋ぎ合わせるかのように、田川は繰り返し思い出した。

 「ミスタータガワ。ミスター?」

 仲間のフィリピン人整備士の一人が、遠くを見つめたままの田川に声をかけた。ハッと我に帰った田川だったが、みんな食べ終えたと見える。

 「あっ!ソーリー、ソーリー。先に戻ってて」

 田川は彼らに、英語混じりの簡単な日本語で答えた。笑顔で手を振る彼らだったが、いつもは見せることのない、気の抜けたソーダのような田川の様子に、フィリピン人整備士たちは内心、心配していた。

 (まったく…。どうなっちゃうんだろうなぁ)

 田川は、すっかりぬるくなってしまったスプライトを飲み干すと、店員にサンキュー、とだけ声をかけて店を後にした。

 田川の心配をよそに、花澤と藤村の”相談”は予定通り、午後5時に「カーニバル」で始められた。二人だけだと思っていた花澤は、藤村が角田も同席して欲しいと伝え、結局3人による”相談”が始まった。

 「どうせ、まだ角田さんにも話してないんでしょ?昨日の話」

 藤村にそう突っ込まれ、花澤は早速言葉が出ずにいた。角田は何の話?と首を傾げている。

 「まあ、昨日の今日だから難しいとは思うけどね。詳しい話はボスからしてもらうとして、今回の相談は、どうしても角田さんにも大いに関係があることなんだ。それで、忙しいところ申し訳ないんだけど、少しの間付き合ってもらっているというわけなんだ」

 藤村がそう話すと、角田の閉じている唇に力がこもった。彼だって「カーニバル」の台所事情を知る一人である以上、大方察しはついているはず。それゆえの、覚悟の表情なのだろう。だが、その表情の変化を藤村に見られてしまった。

 「まあ、そんなに固くならなくたっていいよ。決して悪い話じゃない。ボスも。まずは私が書いてきたプランから読んでくれないかな?」

 藤村はそう話すと、二人に資料を手渡した。12ページに及ぶその内容は、昼までに作り終えたとは思えないほどのボリューム、内容だった。それ以上に驚かされたのは、帳簿など一度も見せたことがないのに、おおよその売り上げなどが書かれていた箇所で、かなり実際の金額に近いものだった点だ。そうした、「カーニバル」の想定される現状を前半にまとめ、後半には藤村からの提案が書かれていた。

 角田も花澤の妻子とのことは聞いているし、状況も理解していた。藤村の提案にはそれが盛り込まれていた。「カーニバル」を存続しつつ、花澤と妻子の関係を修復できるかもしれない一手が。

つづく

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