
「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第30回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
何ら変わらぬ東京へのフライト。花澤はいつものようにワインを飲み、機内食を食べると、席をフラットにし、眠りについた。
気づけば、キャビンアテンダントが席を戻すようにと声をかけてきた。もうすぐ羽田に着くのだろう。寝起きに何か飲むかと尋ねられた花澤は、水を1杯求めた。程なくして、グラスに入った水が運ばれると、花澤はゆっくりと、しかし一気に飲み干した。悪い夢を見たわけじゃない。むしろ、夢すら見なかったことで、なぜか軽い喉の渇きを覚えた。マラテの街が燃える、悪夢を見ることがなかったのは幸いだが、よほど疲れていたのだろう。水を飲み終えると彼は、眼下に街の明かりが見え出した機窓を眺めた。
花澤が乗る便は、予定時刻より10分ほど早く羽田空港に到着した。すでに秋を迎えているはずの東京だったが、花澤には秋を感じるほどではなかった。帰国後、すぐに着るつもりだった薄手のアウターに袖を通すことなく、再びバッグに押し込んでしまうほどだった。
ターンテーブルでスーツケースを受け取り、税関を通過すると、いつもは意識しなかった、日本の空気を思い切り吸い込んだ。希望して帰国したはずなのに、なぜか緊張を感じたからでもあった。やはり、妻子に会うことは、嬉しい反面、緊張を覚えてしまう。深呼吸のはずが、大きなため息へと変わっていった。こうなると、帰宅は二人が寝てからにしようと思ってしまう。横浜あたりでいっぱい飲んでから帰宅してもいいが、思い切って空港内で食べ、タクシーで帰ろう。花澤はそう考え、ターミナル内の4階へ向かった。
江戸小路と呼ばれるフロアは、飲食店や雑貨店などが立ち並び、外国人観光客が喜びそうなエリアとなっている。その中に、24時間営業の寿司屋がある。マニラでも寿司くらい食べることはできるが、花澤は躊躇わず暖簾をくぐった。
機内で食事だけでなく、ワインも飲んでいたが、冷酒と酒の肴が、花澤は無性に欲しくなった。家に帰るのを遅らせたかったからでもあるが、それ以上に、一種の郷愁のようなものが込み上げてきた。冷酒を一口含んだ。さすがにマニラでは味わえない瞬間だった。
ふと、酔っ払って顔を赤くしながらゲラゲラと笑う川崎、隣で呆れ顔の本間、その二人を見てニコニコと笑う藤村と田川。あの4人の姿が脳裏に浮かんだ。最後に角田と最後に交わした握手、彼の表情が浮かぶと、不意に涙がこぼれ落ちた。なぜだろう。朝から帰国するまで、妻子のことは何度も脳裏に浮かんだくせに。日本に戻ってきたことに対する安堵感かもしれないが、彼らの顔が浮かべば、このままマニラにとんぼ返りしたくなってしまう。後ろ髪を引かれるような思いを断ち切るように、花澤はもう1本冷酒を頼み、握り寿司を数貫ほど食べて席を立った。
寂しさとも悲しさとも言えないような、複雑な酒になってしまった花澤は、タクシーで帰宅すべく、4階から1階へ、エレベータで降りた。
扉が開き、花澤が、スーツケースを引きながら降りた次の瞬間だった。左体側(たいそく)に強い衝撃が走った。前をよく見ずに走ってきたのだろう。女性が彼の近くに倒れている。
多少飲んでいるせいか、一瞬怒りが込み上げてきた花澤だったが、ぶつかってきた相手が女性だとわかると、女性の元でしゃがんだ。
「大丈夫ですか?」
声をかける花澤に、女性は「すみません」と謝るが、彼女はすぐに立ち上がり、床に散らばったものを拾い上げた。そして再び走ろうとした。
「あっ!ちょっと待って」
花澤が彼女を呼び止めた。振り返る彼女に花澤は、
「これ。落としましたよ」
と言って、彼女が拾いきれなかったものを手渡した。定型サイズの封筒のようだが、見たことのあるロゴが描かれている。
「ありがとう、ございます」
花澤から怒られるのではないかと驚いた女性だったが、拾い忘れた封筒であったことに一瞬、安堵の表情を見せた。だが、彼女は終始無表情だ。
「お気をつけて」
この時、花澤は初めて、彼女の顔をはっきりと見ることができた。どこかで見たことのある顔。きっと、芸能人で似ている人がいるのだろう。そして彼の目に飛び込んできたのは、大きな穴の空いた右の耳たぶだった。どこかの少数民族のアクセサリーを思わせるほどの大きな穴だ。
女性は封筒を受け取ると、花澤に軽く会釈し、再び走り出した。よほど急いでいるのだろう。ふと花澤の脳裏に、封筒に描かれていたロゴマークを思い出した。
(JICAの職員か?)
JICAとは、独立行政法人 国際協力機構の略称だ。フィリピンでも鉄道・地下鉄プロジェクト、橋梁といったインフラ整備を中心に、資金協力、技術協力などを展開している。在住日本人ならよく聞く名称だ。
それにしても、耳たぶに大きな穴をあける女性が、まさか職員?と、花澤は首を傾げてしまった。いや、時代が変わったのだろう。自分が古い世代で、ついピアスだの茶髪だのと、公共事業の職員にそぐわないファッション、と一括りにしてしまう。そんな自分に呆れてしまった。
(いろんな子がいるもんだ)
花澤が苦笑いを浮かべ、スーツケースに目を向けた次の瞬間だった。さっき彼女が倒れている場所に、もう一つ、「落とし物」があった。花澤は、手をかけたスーツケースのキャリングハンドルから手を離し、落とし物を手にした。
金色のアクセサリー。見た感じ、ペンダントの先についているようなものらしい。ハート型のそれは、中に写真でも入っていそうな、ロケットと呼ばれるチャームではないだろうか。花澤は丁寧に手のひらに置くと、側面を見てみた。どうやら開閉式らしい。爪の先で開けようと試みた。
間違いない。ロケットだった。そして花澤は開けた瞬間、思いがけず小さな声を上げた。
「えっ?」
実は、ロケットにありがちな家族や恋人の写真がなく、代わりにマイクロSDと呼ばれるメモリーチップが入っていたのだ。
(おいおい。なんだよ、これ)
実に不思議な話だ。JICAの職員であろう女性は、慌てて羽田空港を走り、花澤と衝突。ここまではよくあることとしよう。転倒した瞬間、持っていた荷物が床に散らばってしまうことも同様だ。だが、ペンダントヘッドだけが落ちることは実に考えにくい。よほどペンダントを床に打ちつけたとでもいうのか?いや、構造上、それは考えにくい。ましてや、その中には恋人の写真でなく、メモリーチップが入っているとは…。まるでスパイ映画のような瞬間に、花澤は驚かずにはいられない。
(参ったな…。さっきの子を探さなきゃ)
だが、すでに女性が再び走り出してから時間が経過している。しかし花澤は、おそらく上の階、出発ロビーがある3階に行けば、まだ会えるかもしれない。花澤はメモリーチップをロケットに戻すと、それをポケットにしまい、スーツケースを転がしながら3階へ向かった。
つづく