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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第13回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
仕事を終え、田川が向かったのは自宅ではなく、マラテだった。だが、いつだって仲間たちと一緒に訪れるのに、いきなり「カーニバル」に単身乗り込むのも不自然だ。そこで田川は、同じくマラテにある居酒屋に足を運んだ。情報収集を行うために。
ただでさえ無口な居酒屋のマスターが、気安く噂話などしないはずだ。そんなことは田川でなくとも、二度店を訪れればわかる話だ。しかし、店の客が無口であるとは限らない。ほら、明らかに駐在員と思しき日本人が数名、店を訪れたではないか。
「あ〜、今日も終わった。スーパードライ2本頼むね」
日本のビールを頼むところ、どうやらまだフィリピンに来て日の浅い駐在員だろう。なんとなく想像できる。フィリピン生活に慣れる頃には、彼らも普通にサンミゲルを注文する。だが、まだローカルのビールは合わないらしい。”日本人あるある”だ。
「そんで、その話、そんなに重要なのかよ?」
「まあな。随分資産持ってるらしくてさ。その割に財布の紐が堅いとかなんとかで、みんな、なんとかその紐を緩めようと、試行錯誤だったらしいんだが、これがなんと、このマラテのKTV社長がこじ開けちゃったって話らしいよ」
話の流れでおおよそ見当がつく。まさか入店早々、例の噂話をするかと思うほど、どうやらこの界隈では話題らしい。だが、見るからに”ベテラン”とは程遠い、駐在員然としている男たちがKTV通い?あるいは、ただの噂を聞きかじっただけ?田川は彼らの素性が気になった。噂話の信ぴょう性と、その広がり方が。
「へぇ、そうなんだ。それって、これから行く店とは関係あるの?」
「いや、そんなことはないんだけどさ。最近はこっちのKTVも経営が大変らしいよ」
男たちはKTV目的にマラテに足を運んだらしい。となれば、噂話のことも気になるのは、ある種、自然の流れかもしれない。
「そうなんだ。あっ、それより、今夜のことは会社には内緒な。一応、マラテには仲間内でも禁止されてるから」
男たちの一人が、仲間に口止めをした。そのことも田川はよく知っている。特に日本企業は、駐在員たちの安全確保という名目で、マニラ首都圏にある繁華街への出入りを禁じている。特にこのマラテと、道路を挟んで隣接するエルミタは犯罪被害が多い、という理由で強く禁じられている。しかしその一方で、もう一つの繁華街であるマカティに比べ安価で、しかも日本人向けの店も多いことから、お忍びでやってくる駐在員も少なくなかった。そういう、掟破りな駐在員が話す噂話なのだから、きっとその通りの内容で流布されているのだろう。田川にとって、これ以上聞き耳を立てるほどのことはない。残りのビールを飲み終えると、勘定を済ませ、さっさと店を後にした。
もし本当に花澤が藤村から借金をしたというのであれば、それはなんらかの理由があってのことだろう。そして、借金そのものがガセネタであれば、もっと心配することなどない。おそらく、藤村の”相談”を、花澤が受け入れただけの話に決まっている。ただ、この妙な噂を流したのが誰で、どういう経緯でこうした話になって行ったのか。それだけは突き止めたかった。そうしなければ、フィリピンのチスミス文化がそのまま在住日本人にも浸透してしまいかねない。それは新たな要らぬ噂を生み出すだけだからだ。ひいてはそれが犯罪助長にも繋がりかねない。田川はそれを一番懸念していたのだ。
「よっ!」
田川の背後から、川崎が肩を叩いた。隣には本間もいる。
「なんだ、川崎さんに本間君か」
「なんだはねぇだろ。どうせ同じこと考えてると思ったけどさ。まさかこんなところで会うとは思わなかったぞ」
川崎が半笑いで話した。
「それはこっちのセリフですよ!まあ、あの話でしょ?」
不意を突かれた格好の田川は、不快感を露にしたが、すぐに例の噂話が彼らの元にも伝わっていることに気づいた。
「そうじゃなきゃ、火曜日なんかにマラテには来ねぇって」
川崎はまだ半笑いだ。
「とりあえず行きますか?」
田川が「カーニバル」に向かおうとすると、なぜか川崎は田川を引き止めた。
「まあ、待てって。先に話を確かめさせてくれよ」
川崎はそういうと、居酒屋「信長」を指差した。ちょうどその近くを歩いていたというのもあるが、川崎がいうことも間違っていない。3人は「信長」の暖簾をくぐった。
ビールとつまみになりそうなものを3つほど頼んだところで、川崎が口を開いた。
「で、どう思う?ボスが藤さんから金借りたとかいう話」
「私は正直、”ガセ”だと思ってます」
田川は即答した。はい、話は終わり。と行きたいところだが、当然、これだけで話は終わらなかった。
「やっぱりな…。オヤッサンも兄貴も同じ意見だったか…」
「本間君だって同じ意見だっただろ?」
田川の尋ねに、本間は黙って頷いた。
「でも、川崎さん。問題は誰があの二人を目撃して、誰がこの妙な噂話を流したかなんですよ。おまけにどうやら、話も食い違いがありそうですしね」
「確か、昨日、BGCのPNBだろ?午前中だったなぁ…」
川崎はビールが運ばれてきたのに手をつけることなく、腕を組んで目を閉じた。
「何か心当たりでも?」
田川は腕を組んだままの川崎に声をかけた。
「はっきりとは思い出せねぇ。だが、決まって月曜日の午前中、BGCを歩いてる奴がいたんだよなぁ。それも、全く意味なく歩いてた奴がいたんだよ」
「なんで知ってるんですか、オヤッサン」
「ああ、それな。前の勤務先がBGCにあったんだよ。それも、少し遅めの出勤だったんだけどさ。いっつもウロウロしてる日本人がいたんだよ。普通、日本人かどうかなんて、”パッと見”じゃわからないはずなんだが、ある時、そいつが突然叫んだんだよ。日本語でさ。それで日本人だって気づいたんだけどさ。あいつ、今でも毎日歩いてりゃ、あの二人を見かけてもおかしくねぇんだよなぁ」
川崎の話に、二人は今一つ要領を得ない。簡単にまとめれば、毎朝、BGCを徘徊する人がいて、日本語で叫び声を上げたことから、日本人だと分かった、ということなのだろう。
「でも、川崎さん。BGCをウロウロって、そう簡単にうろつけるような場所じゃないでしょ?BGCなんて」
田川のいう通りだ。街には民間のセキュリティガードがビルを守っている。そのせいか、BGCはフィリピン国内屈指の安全な街と言われている。いくら日本人といえど、叫び声などあげれば、あっという間に目をつけられるだろう。
「そこなんだよ。なんだか変だと思うだろ?ところが毎日うろついてたんだよなぁ。っていうか、二人ともここまでうろついている日本人を男だと思っただろ?違うからな。女だぞ。それも、そこそこ高齢のな」
まさかの展開に、田川と本間は顔を見合わせて驚いた。
「えっ?マジっすか?オヤッサン」
「そう思うだろ?なにせ、こうしてお前らに話す俺が一番驚いてんだからよ。俺はこの目ではっきりと見たから言えるんだけどな。全くもって、”びっくりポン”だよ」
「び、びっくり、ポン…」
川崎は、いつか見た日本のテレビドラマか何かの決め台詞のようなことを言ったのだが、それを聞いた田川と本間はその場で凍りついてしまった。
「えっ?何か変なこと言ったか?俺」
「えっ?」
「えっ?」
妙なところでなぜか3人、固まってしまった…。
つづく