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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第33回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
和気あいあいとテーマパークを楽しむ親子がいれば、楽しく飲んでいるいつもの仲間同士あり。ところが花澤はリビングで完全に酔い潰れてしまった。フィリピンとの温度差がそれほどあるわけでもないし、9月も終わろうとしている日本の首都圏だが、まだ暑い日が続いていた。だが花澤は大きなミスを犯していた。いつもの習慣とでもいうべきか。エアコンをつけていたのだ。そしてさらに問題を招いてしまったのが、その設定温度だった。恵子と美咲はすでにエアコンを使うことも少なく、ほぼ真夏の設定。一方の花澤はすでに泥酔状態。答えは一つ。彼はこの後、風邪をこじらせてしまう。
夜が明けた。花澤はエアコンの効いた室内で眠り続けている。だが、見事に体は冷え切っていた。一晩で風邪を引くとは考えにくい話だが、彼は気づいていなかった。帰りの機内で、隣の席に座る男性が実は風邪をこじらせていたのを。隣席との距離があるといわれるビジネスクラスといえども、あるいは、数分で機内の空気が入れ替わると言われようと、移る時は移る。ましてや、酒を浴びるほど飲み、ジャケットを脱いだ、Tシャツ1枚姿で眠ってしまえばなおさらだ。体の抵抗力は著しく低下し、目を覚ました時には熱っぽさを感じていた。
しかし、人というのはいや、飲んべぇというのは、こうした状況下でたいてい、こう考える。「あ〜。少し飲みすぎたかな?」と。少しどころではない。ボトルには3分の2ほど入っていたウイスキーは”すっからかん”。おまけに床にグラスとともに転がっている。幸い、吐き気を覚えるほどではないが、まだ酒は残っている。しかし、次第に自分が発熱していることに気づき始めた。午前10時のことだった。
とりあえず体温計で熱を測っておこう。花澤はそう思ったのか、救急箱を探し始めた。確か、リビングの戸棚に入っているはずだ。彼は過去の記憶をたどりながら救急箱を探した。
あった。救急箱が。花澤は体温計を取り出すと、脇に挟んだ。そして待つこと、1分。
まだ高熱とはいかないまでも、37.5度と表示されている。見事に寝冷えした。いや、彼が気づくことはないが、機内で”感染”していた。とりあえずの発熱に、花澤は救急箱を漁り始めた。風邪薬でも、解熱鎮痛剤でもいい。何かないだろうかと。しかし運命は無惨にも、花澤に残酷な結果をもたらしたのだ。
ない。風邪薬も、解熱鎮痛剤も。あるのは胃腸薬と絆創膏の類のみだった。
「あ〜。薬ねぇのかよ。仕方ない。薬局まで行くか」
花澤は支度をし、ドラッグストアへ行くことにした。幸い、ダイニングテーブルの端に、マスクの箱が置かれていた。そこから1枚取り出すのだが、これまた残念なことに、女性用の小さなサイズで、花澤の顔にはいささか小さすぎる。しかし、今は背に腹は変えられない。なにせ熱が出ていると知られれば、”あっちの発熱”かと疑われること間違いない。2023年当時であれば、まだ仕方のないことだった。
女性用の小さなマスクをし、クローゼットから引っ張り出してきたジャンパーを羽織った花澤は、マンションから歩いて数分のところにあるドラッグストアへ向かった。
熱で次第に関節に痛みを覚える中、花澤はふと、日本のドラッグストアへ久しぶりに足を運んだと思った。別に今、この瞬間にそんなことを思う必要などないのだが、熱も出れば思考も低下し、要らぬことを考えてしまうものだ。だが、この一見して的外れとも言える花澤にこの後、大きな衝撃が走ることになる。
ドラッグストアに入り、医薬品が置かれていそうな棚を発見した花澤は、急いで風邪薬を探した。急いでというより、咄嗟にと言った方がいいだろう。まだ発熱だけだというのに、風邪と断定するのは早計だろう。だが、花澤は発熱で思考が低下する中、何とか頭をフル回転させ、この発熱の原因を探っていた。それも、ドラッグストアに入る直前から。そして彼は気づいた。「寝冷え」だと。その結論に至った花澤は、この後に来るであろう”症状”を推測した。その結果が風邪薬、あるいは総合感冒薬だった。
実にいろんな種類の風邪薬があるものだ。花澤は改めてそんなことを考えていると、ふと、あるPOP(ポップ。店内広告物)のところで立ち止まった。「あなたのかぜはどこから?」という、店員が手書きしたであろうコピー。いや、そっちではなかった。はっきりとした目鼻立ちと、シャープな輪郭、そして、後ろに束ねたストレートヘアーの女性…。
「あっ!」
花澤は思わず大声をあげてしまった。タイミングの悪いことに、近くには女性客が歩いていて、肩をビクッとさせ、花澤の方を向いて驚いた表情をしている。
「お客様、どうされましたか?」
慌てて女性店員まですっ飛んできた。これには花澤の方が狼狽してしまった。
「い、いや、その…。自分に合いそうな薬があったもので…」
しどろもどろで話す花澤。おもむろに「熱」と大きな字で書かれている箱を手に取ると、早歩きでレジへと向かった。
(あの”耳穴の女”にそっくりだぜ…)
恥ずかしさと発熱で、茹蛸のように真っ赤な顔をした花澤は、レジへと向かう間どころか、ドラッグストアを出てからも、ずっとあの店内POPのことが頭から離れなかった。
確かに、”耳穴の女”こと、立花遥は花澤が叫んだ通り、店内POPで見た女優によく似ていた。目鼻どころか、唇もしっかりとした存在感。シャープな輪郭もそっくりだ。大きく違うところは、人から見て左側、自分から見て右耳の耳たぶに「イアーロブ」と呼ばれる、ピアスと呼ぶには大きすぎる”穴”が開けられていることだった。
ついでと言ってはなんだが、花澤は昨夜、立花に渡し忘れた「落とし物」のことも思い出した。ロケットに入れられた、マイクロSDカードのこと。そう思うと花澤は、熱がどんどん上昇しているにもかかわらず、歩く速度は増していった。
ところが、花澤が部屋に戻る頃には熱がひどくなり、軽いふらつきを覚えるほどになっていた。まさか”あの流行り病”?そう思ってみたが、ともかく薬を飲み、ベッドに入ろう。花澤はすぐに、買ってきた薬を服用すると、寝室のクローゼットから、帰国した時に使っているパジャマを取り出し、それに着替えてベッドに入った。花澤が眠りにつくにはほとんど時間を要しなかった。
つづく