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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第26回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
リアルな夢だからというわけではないが、これは何かの暗示なのかと、川崎はダイニングチェアに腰掛けたまま、夢の中の出来事を思い返した。たいてい、夢というのは目が覚めるなり、次第に忘れ去っていくものが多いものだが、煙の臭いまで感じられたのは、彼の長い人生を持ってしても初めてだったかもしれない。幸い、室内で何かが燃えているというわけではなかったものの、日頃歩く場所とはいえ、まさか”ロビンソン”の近くで、銃撃だの火災だのと遭遇する夢というのは、実に”不吉”な内容だ。それ以上に、この時は川崎が知る由もないことだが、花澤も同様の夢を見ていたことだ。でも、なぜマラテ?なぜ銃撃?そして火災?一体、何を暗示しているというのか。
突然、川崎は立ち上がると、机に置いたままのノートパソコンの電源を入れた。検索サイトの地図ページにアクセスし、まさに夢で見たエリアを開いた。
川崎は地図を見ながら、妙な胸騒ぎを覚えた。ただの偶然か、あるいはただの悪夢だとしか思っていなかった川崎だったが、その場所は、ロビンソンからほど近いところにある。
(アメリカ、大使館…)
そこは、ペドロヒル通りと交わる、ロハス・ブールバードと呼ばれる大通りに面していた。ロビンソンから直線距離でも数百メートルしか離れていない。アメリカ合衆国大使館がそこにはある。同じロハス・ブールバード沿いには日本大使館もあり、そちらは川崎も馴染みのある場所ではあったが、さすがにアメリカ大使館に赴くことはなかった。しかし、改めて見ると、マラテ・エルミタから本当に近い場所にある。かつて、このエリアがマニラ首都圏で今以上に賑やかな場所だったと、川崎は誰かに聞いたことがあった。それと夢の内容とになんの関係もないだろうが、まさかアメリカ大使館が襲撃されるという暗示なのかと思い、彼はおもむろにパソコンが置かれた机に向かったのだった。
(何かの考えすぎだろう)
ただの思い過ごしであって欲しい。川崎はパソコンの電源を落とすと、大きなため息をついた。再び眠りに落ちることもできたが、ベッドに向かわずバスルームに向かい、冷たいシャワーを浴び始めた。
実は同じ頃、本間も目を覚ましたところだった。彼は悪夢こそ見なかったが、同棲するファティマとの約束で、昼前からモールに買い物に行くことになっている。
彼女がシャワーを浴びている間、外を眺めながら本間は、昨夜のことを思い返していた。どういう展開で自己紹介に至ったのかまでは思い出せたものの、まさか本当に、全員で自己紹介をするなんて、新入社員の研修でもあるまいし。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。だが、花澤の帰国を前に、一層飲み仲間として以上に絆が深まったような気持ちになったのは間違いなかった。いつも酔っ払いで口の悪いオヤジとしか見ていなかった川崎に、微かながらも敬意を抱くきっかけになったし、藤村に対する怪しさも払拭できた。田川は相変わらずという感じだったが、最後に花澤の人となりも知ることができ、少なくても花澤不在の半年間は持ち堪えられそうだとも思った。もちろん、本間は自分に課したミッションがある。角田と話をすること。シンプルなミッションではあるが、これから苦労も多いであろう角田の役に立てればと、本間は密かに思っていた。
(日本、か…)
昨夜、本間は自己紹介の時、話していないことがあった。それは、川崎も知らないことだった。確かに本間は2019年にフィリピン・マニラにやってきた。だが彼は、その理由について川崎にすら話したことがなかった。元々川崎は、彼らが務めるコールセンター会社の親会社の勤務だった。親会社は東京にあり、川崎に与えられた”任務”は、コールセンターの状況報告だった。俗な言い方をすれば、彼は親会社からグループ企業に派遣されたスパイのようなものだった。御多分に洩れず、コールセンターで使われる経費が異常に多いという会計報告があったからだった。だが、いきなり会計監査を入れれば、互いの関係にヒビが入りかねない。そう思った親会社の首脳陣は、従業員を派遣し、潜入させることにしたというわけで、あえて優秀な成績の社員ではなく、”そこそこ”の本間を選んだ。その方が怪しまれないだろうという、なんとも慎重な人選だった。
当初は半年もいれば完結できると思った親会社側だったが、結局原因を探ることができず、本間の滞在期間はどんどん延長。その間に例の流行病でフィリピンはロックダウンとなってしまった。以後、本間は帰国できずに今に至っていた。帰国できないという、一種の喪失感に襲われた本間ではあったが、彼が開き直るのは早かった。帰れないのであれば、赴任したマニラの地で思う存分楽しんでやると。結果、ロックダウンが解除されてもそのまま居残ることとなった。理由などいくらでも挙げることができた。事実、彼らの経費問題は根本的な原因を探ることができず、継続調査という名目で残ることができた。それ以上に、コールセンター側では本間を優秀な社員と”認定”し、親会社にも、このまま使い続けたいと言ってきたのだ。本間の希望通りの展開に、改めて辞令が出た時は、人目を気にせず笑いが込み上げてきたほどだった。
そんなことを心の中で思い返しているうちに、ファティマがバスルームから出てきた。米の食べ過ぎなのか、食事の際もソフトドリンクを飲むからなのか、フィリピンの女性は早くからお腹がポッコリと出てしまうのだが、ファティマはスレンダーな体型を維持していた。反面、「出ているところは出ている」という、男性はおろか、女性も羨むボディだった。加えて、すぐにスペイン系だとわかる目鼻立ちに、KTV嬢だった当時、店でも指折りのトップランカーだったのは誰もが納得できる話だった。そんなファティマがなぜ、本間と交際を始めたのかは、実は本間自身も今ひとつ理解できなかった。しかし、ファティマは本間によく懐いていた。KTV嬢時代から少しずつ日本語を覚えていったようだが、本間と交際するようになり、ますます日本語を覚えようと、意欲的に勉強を始めた。
「ダイスケ、モールイコウ」
彼女は笑顔で本間を買い物に誘う。本間も笑顔でこたえた。
「OK。レッツゴー」
本間はファティマの肩を抱きながら、コンドミニアムの部屋を出ていった。
つづく