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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第20回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
それから他愛のない話をしたふたりだったが、自宅があるコンドミニアムへの帰途、藤村はBGCの街を歩きながら、川崎との会話を回想しつつ、これまでに感じていた疑問を思い返した。以前から藤村が気になっている、花澤のことだった。日本に妻子を残してまで、マニラでKTVを開くという話を聞き、藤村は、随分と理解のある奥さんだと思っていた。KTVの日本人オーナーといえば、フィリピン好きが高じて、店を経営するに至ったケース、シンプルに儲かるからという理由で始めたケース、あるいはフィリピン人女性との交際を経てKTVを始めたケースは聞いたことがある。あるいは、日本人投資家や経営者の中には、日本に妻子を残して渡比するケースも聞いたことはある。だが、KTVのオーナーで日本人の妻子を日本に残しているケースは聞いたことがなかった。川崎の話で、その疑問は解消された。とはいえ、中村なる男が始めた「カーニバル」を、会社を辞めてまで引き継ぐという花澤の気持ちは、比較的物事に寛容な藤村といえど、理解の範囲を超えていた。
それでも「カーニバル」を守ることは、角田を守ることにも繋がり、ひいてはスタッフ、KTV嬢の職も守ることになる。本来なら花澤はフィリピンを離れ、日本に戻るべきだろう。それでも彼のこと。それもできないに違いない。さて、花澤にとっての”最適解”は、どこにあるのだろう?
(もう一度、プランを見直す必要があるだろうか?)
そう考える藤村ではあったが、一度走り始めたプランを変更するのは容易ではない。やはりここは川崎が話したように、ことの成り行きを見守るしかないのだろう。
そう思っていたのは、藤村にそう話した川崎も同様だった。藤村の純粋さには少々呆れるところもあるが、悪意がないのも十分理解している。それゆえに、後は花澤次第、と言わざるを得ない。願わくば、家庭も円満に、そして日本・フィリピンの両国で活躍してほしい。そう思う一方で、どれほどの困難が花澤を待ち受けているかと思うと、川崎はもどかしさを覚えた。
(ったく。厄介な話だぜ。うまくまとめる方法はないか?)
そう思ってはみたものの、残念ながら川崎には、ことの成り行きを見守る以外になかった。自宅のコンドミニアムに戻る車内で川崎は、ただただもどかしい気持ちを、心の中で繰り返す以外になかった。
それから数日が経過し、花澤の、ある種壮行会のようなどんちゃん騒ぎが行われる日が訪れた。実際には週明けではあるのだが、花澤は帰国する準備を整えた。もちろん、妻の恵子にも帰国の旨は電話で伝えていたのだが、そっけない返事しか返ってこなかったのは、帰国後の波乱を暗示させるようで、内心花澤の心の中で、北風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。それでも娘の美咲のためにも、恵子との関係を修復しなければならない。これまで何度も困難を乗り越えてきたという自負が花澤にはある。そんな気持ちを胸に、いつもより早い、午後2時には店に向かった。
「オハヨゴザイマス、ボス」
いつもならこんな時間に出社していないアイヴァンが、ニコニコ顔で出迎えた。まさか俺の帰国を喜んでいるのか?一瞬疑いの目を持ってしまった花澤だったが、アイヴァンの笑顔の理由を知ってホッとした。
「ボス、グッドラック!」
別に、今日帰るわけでもないどころか、これからいつも通り仕事だというのに、いきなりアイヴァンからグッドラックはないだろう。そう思った花澤だったが、実はアイヴァンも少しの間、田舎に帰るらしい。彼は、故郷のバギオ(バギオ=ルソン島のやや北部にある都市で、標高が高く、フィリピン有数の避暑地としても知られる)に残した妻子がおり、しかも妻が出産予定だという。花澤もそのことを聞いてはいたが、彼の帰省を許可したのは角田だった。花澤はそのことを思い出したのだ。
「おはよう。アイヴァンもグッドラックだな!」
そういうと花澤はスッと右手を出し、アイヴァンと握手を交わした。アイヴァンは愛らしい笑顔で頷いた。
「ボス。おはようございます」
そしていつも通り、角田も花澤の出勤に気づくと、レジの近くから出てきて挨拶をした。
「おはよう、大ちゃん。今日もよろしく」
「今日は特に大切な日になりそうですね」
角田のツッコミに似た一言に、花澤は思わずのけぞりそうになった。
「のっけからキツいなぁ。でも、気をつけないとな」
苦笑いで返す花澤だったが、帰国前のどんちゃん騒ぎともなれば、彼も相応の覚悟はしている。
「早速ですが、ボス。軽い打ち合わせ、いいですか?」
角田は花澤に声をかけると、ふたりでオフィスに入った。
角田はすでに、花澤の長期帰国に対応すべく、計画を立てていた。これまでは花澤の右腕として、あるいは番頭役として「カーニバル」の縁の下の力持ちとして支えてきたわけだが、今後は最低でも半年の間、角田が花澤の役目を担わねばならない。だが、流石語学とフィリピン人の人心掌握に長けた角田らしく、しっかりとスタッフや嬢のマネジメントから金銭管理に至るまで、花澤が感心するしかないほどのプランが練られていた。
「よく短期間に、こんなところまでまとめられたなぁ」
感心する花澤に、少し鼻先がくすぐったくなるのを感じつつ、角田は笑顔で言った。
「俺が全部まとめましたって言ったら、嘘になりますよね。少しだけ藤村さんに手伝ってもらいました」
「そうか。藤さんもやるねぇ…」
これには花澤も苦笑いで返すしかなかった。もちろんわかっている。別に藤村が「カーニバル」の経営に口や手を出そうとしているわけではないことくらい。むしろ、ここまでお節介でお人好しの藤村のことを心配するほどだった。
「それより最近、仕入れ値の上昇が止まらないんですよ」
さっきまで笑顔だった角田の表情が、一気に曇った。あの流行病(はやりやまい)以降、フィリピンも例外なく、物価高の嵐に見舞われていた。特にマニラ首都圏の物価高は顕著で、収束の兆しは全く見えないどころか、天井が見えないほど、物の値段が上昇している。
「それは仕方ないさ。日本もそうだし。問題は物価もだけど、円安とペソ高だよなぁ」
花澤のいう通りだった。要は、「カーニバル」の主たる客である日本人観光客さえ来店してくれればよかった。そうすれば仕入れ値の上昇など、いくらでも吸収できる話だ。だが、物価高に加え、円安・ペソ高、そして流行病のトリプルパンチでは、仕入れ値の10ペソ、100ペソすら切り詰めたい気になってくる。
「まあ、今は持ち堪えるしかないな。幸い、藤さんのサポートもある。ここは彼の厚意に甘えるとしないか。きっと来年になれば、事態が好転するかもしれない」
「まあ、そうだといいのですが…」
花澤の楽観的な言葉に、角田の表情は曇った。しかし、それが角田を安心させるための、花澤の親心だと思えば、そうネガティブな気持ちを引きずるわけにはいかない。
「そうですね。じゃ、スタッフとホールの掃除、始めますね!」
角田は気持ちを切り替えるように、声のトーンを上げた。そしてスタッフを集めると、ホールの清掃を始めた。
(大ちゃん、頼むぞ〜)
花澤は、角田に祈る気持ちで、彼がホールへ出るのを見届けつつ、オフィスの扉を閉じた。
つづく