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「最後の決断〜Escape from the Philippines」 第18回
1. 2023年、バー・マンス(-ber months) つづき
マカティから、高級住宅街とゴルフ場を横目に抜けるマッキンリー・ロードを進むと、ボニファシオ・グローバル・シティを示すBGCのモニュメントが現れる。交差点から5thアベニューに向けて左折し、25thストリートへ右折すると、目的のBank Barが入る建物の裏側にたどり着く。川崎はそこで車を降り、建物の反対側にある表玄関へ向かった。
建物の1階表玄関側には、バーらしき店は見当たらない。しかし川崎はおもむろに、セブンイレブンへと入っていった。
見た目は至って普通のセブンイレブンではあるが、店の入口を入った左側に、1枚の扉がある。そしてそこには1人の男が立っている。
「I would like to go to the bar.」
川崎はバーに行きたいと、扉に立つ男に声をかけた。彼はバウンサーと呼ばれるセキュリティで、男は川崎の見なりを一瞥(いちべつ)すると、扉を開けた。
まるで隠れ家のようなバー、それがBank Barだった。アメリカ禁酒法時代のもぐり酒場、speakeasy(スピークイージー)にインスピレーションを受けたバーは、パッと見ただけではバーの存在に気づきようがない。だがバウンサーが扉を開けると、明らかに別世界のようなバーが現れる。薄暗い中に、隠れ家感を増幅させるコンクリート打ちっ放しの内装。ラウンジスペースを思わせる豪華なインテリアは、訪れる客に寛ぎの一時を提供してくれる。
川崎が客でいっぱいの店内を見渡すと、カウンターの端で藤村が背中を向けて座っている。きちんと隣のスツールを空けて。
「よっ。藤さん」
川崎は藤村の隣の、空いたスツールに腰掛けた。藤村は川崎の方を向き、「どうも」と笑顔でこたえた。
「今日はアレなんだ」
「そりゃそうだよ。仕事だったんだから」
彼らが電話の中で言ったアレ。それはドレスコード、服装のことだった。高温多湿のフィリピンでは、快適な服装といえばTシャツにショートパンツ、そしてサンダルのスタイルが一般的だ。だが、そのスタイルでは入れない店が少数ながら存在する。特にBGCでは、バーやクラブではドレスコードを要求することがある。フィリピンスタイルの服装では、Bank barに入るのは困難だ。それをふたりは、アレで表現したというわけだ。
「そうだったんだ」
藤村はそう返事すると、川崎にメニューを手渡した。しかし川崎はそれを見ずに、バーテンダーを呼び、マティーニを注文した。
「驚かなくたっていいじゃないか、藤さん。俺だってマティーニくらい飲むぞぉ」
意外だという表情をする藤村に、川崎は口を尖らせて不機嫌に言いながらも笑顔を見せた。藤村は黙って笑顔を返した。
「そういえば、このバーは2度目だな」
川崎は周囲を見渡してバーの雰囲気を確かめた。
「そうなんだ。だから店の入り方がわかったんだ」
「っていうか、この店は有名だろ?いったことのある・ないはあるだろうけど」
確かに川崎のいう通りで、隠れ家バーとはいえ、ネットで調べれば、個人のサイトやブログ、SNSに加え、フィリピン政府観光省のサイトでも紹介されている。
「それより、何か話したいことがあるんじゃないの?川崎さん」
藤村は川崎に話を振ると、細い足のカクテルグラスを左手で持ち、カクテルを一口飲んだ。
「ボスの件だよ。アイツが帰国することはともかく、藤さんがボスに何をしたのか、それを知りたい」
「カーニバル」ではあまり目にすることのない真剣な眼差しで、川崎は藤村に尋ねた。それは川崎だけでなく、本間も、田川も知りたいことだった。
「そういえば、僕の口からみんなにまだ話してなかったよね。今度話すつもりだったけど、せっかく会いにきてくれたから、先に説明するね」
藤村は持っていたカクテルグラスを置くと、花澤と藤村、角田との話し合いの内容を話し始めた。「カーニバル」への資金提供。花澤が不在の間、角田が店を守ること。そして花澤の家族の関係修復と、日本でのビジネスの資金提供をしたことまで。ただ、具体的な金額については話さなかったが。
「なるほどな。まあ、藤さんなりの優しさってやつなのはわかるけどさ。ただ、その優しさが仇にならないといいけどな」
優しさが、仇に?川崎の言葉に、藤村は怪訝な表情を隠さなかった。
「仇、か…」
「別に、藤さんがしたことを否定したいわけじゃないんだ。ただ、もし藤さんが、これから話す、ボスの真実を知ってて資金を提供したのか、それとも知らずに提供したのか。それは気になる」
「ボスの、真実?」
「そう」
「それは具体的に、どんなこと?」
「例えば、『カーニバル』開店に至るまでのエピソード。ボスから聞いたことある?」
川崎の質問に、藤村は黙って首を横に振った。
「じゃあ、ボスは元々、フィリピンになんて興味がなかったことは聞いた?」
藤村は再び首を横に振った。その姿を横目に、川崎は軽くため息をついた。
「やっぱりボスは誰にも話してないんだ。じゃあ、藤さんがせっかくボスとのことを話してくれたんだ。俺も藤さんにちゃんと話さないといけないよな。隠す必要もないし、むしろ藤さんには知っててほしい。もちろん、これから話すことを聞いて、藤さんがボスへの考えや態度を変える必要はないけどね」
川崎の前に、マティーニが入ったカクテルグラスが置かれた。彼はキリッと冷えたカクテルを一口含むと、グラスをそっと置き、川崎が知る、花澤の”真実”について語り始めた。
「『カーニバル』は、藤さんがマニラに来る1年前にボスが始めた店なんだが、実は同じ名前の店が同じ場所にあったんだ」
それは藤村が初めて聞くことだった。マニラのKTVはよく閉店と開店を繰り返す。特に、2020年から始まった流行り病以降、閉店する店が増えたのは容易に想像ができる。そして、その度に、どんな人が経営者で、どんな店であるのかくらいは噂話レベルから詳細に至るまで、かなりの情報を耳にする。なのに、「カーニバル」が花澤の始めた店ではない、という話は聞いたことがなかった。藤村がフィリピンを訪れたのが、花澤が店を始めて1年後だから聞かされたことがなかった、というわけでもなさそうだ。
「さっきも言ったけど、ボスはそもそも、フィリピンに興味なんて、これっぽっちもなかったんだよ。でも、ひょんなことから巻き込まれたっていうかね。フィリピンと関わることになっちまったんだよなぁ」
川崎は再びマティーニを口にすると、当時のことを思い返しながら話を続けた。
つづく