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擁護者とは

去年だったか、同僚にせがまれてMBTI診断をやることになった。「5分くらいで終わるんで!」。そう言われてやってみたら、15分経っても終わらない。次から次へと質問が映し出されて、だんだん集中力も切れ始め、解答も適当になってくる。「俺は仕事中に何やってるんだ」と内心イライラしながら、ようやく結果に辿り着いた。「擁護者」。それが私の診断タイプらしい。

擁護という言葉からは、誰かを守る、庇うということが想像される。MBTIの解説を読むと「擁護者は根っから利他的」とある。どうやら、擁護者は他者の存在があって始めて成立する人間のようだ。しかし、最近私は私自身のことを、擁護者とは思えなくなってきた。擁護者の陰に、「わたし」という存在がかき消されているように思えてならないのである。わたしはどこにいるのか。わたしという主体はどこにいったのか。最近子どもが生まれたこともあり、他人を擁護している場合ではない、自分のこと、家族のことをまずは考えなければという発想が心を支配していく。

ヘンリー・ナウウェンという作家がいる。彼はカトリックの神父で、人間を深く洞察する眼差しの持ち主だった。彼の著作の一つに「傷ついた癒し人」というものがある。神父や牧師は、社会の中で傷つき心が折れてしまった人々を、教会や街角で優しく包容し、受け止め、聖書の言葉から希望を語り、新しい人生へと押し出していく。まさに聖職者という表現が相応しい。しかし、一方で彼らもまた人間である。彼らもまた傷つき、心が折れることがある。しかし、彼らが聖職者であるが故に、彼らを癒してくれる人はいない。彼らはどうすれば癒されるのか。聖職者もまた、神の前に自らの弱さを自覚する人々だ。「擁護者」という結果が出た時、「ピッタリですね!」という反応に対して、納得しつつ違和感を感じた。「わたしの擁護は誰がしてくれるんだ??」。

「擁護者」としての役割を期待されているわたしは、他者を優先することがほとんどで、自分の主体性を発揮する機会が実は少ない。さらに、他者を助けることは得意でも自分自身が助けられることは苦手だ。そのことを自覚しているからこそ、自分に対して最大の擁護者にならなければいけないと最近は思っている。人に助けてもらうのが苦手という性質はそう簡単には変わらないし、なおさら自分が自分自身の主体性を大切にし、自らを擁護していきたい。それが最近の新しい決意。

擁護者としての自分は嫌いじゃない。でもそれは周りのご機嫌を適当に取りながら、要領良く生きてることの裏返しでもある。自分を殺して他者に尽くすだけの生き方はそろそろお終いにして、自分を守れる擁護者でありたい。同僚との1年ぶりのMBTI診断の話題から考えたことをまとめてみた。

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