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文を書くということ、文化的であること。

いろいろな文を読むことが好きで、特にエッセイ。

なんでもない日常から出た小さな気づきがあまりにも面白くて、それが読者にウケて一冊の本にもなってしまうって相当すごいことだと思う。でも最近気づいたことは、世の中の面白い話を書いている人たちをすごいなと思う反面、起こっているエピソード自体の面白さはみんな同じようなものなのではないかなと言うこと。なんなら自分の方が面白い人生を送っているような気もする。つまり、みんな潜在的にエッセイストの才覚はあるのではないか。

ということで、ずっと何かしらを書き留め続けたらいつか誰かが面白いと思ってくれる文章が書けるようになるかもと考えてこれを書いています。

思えば、小さい頃から文を書くことは得意だったけど、読んでいる人が面白い文を書く練習ってしたことがない気がして。学校で成績優秀になれる要素を詰め込んだ読書感想文くらいしか書けない自分が少し悔しい。これを書いていてもなんか、つまらない。どう書いたら面白くなるのかな?なんて考えてみるけど、そんなこと考えている人が書いた文が面白いわけがない気がする。

でも、書き続けたり、淡々と表現し続けたりすることに意味がある気もする。有名なエッセイストの文も意外とよく考えてみると普通のつまらない文な時もある。一つ言えるのは、いろいろな事にアンテナを張って、思いを巡らせている人の文章は面白い。特に、文化的な生活を送ることは文を書くときに大切だと思う。

自分のことを文化的な人だな、と考える人はこの日本にどのくらいいるだろうか。いたらだいぶナルシストな感じもするけれど、私は自分が結構文化的な人間だと自分で思っている。そもそも文化的とは文化的教養、つまり学問や芸術への教養があること。私の場合は非常に平凡な家庭で育ったけれど、国立大学で勉強しているし、ピアノも弾くし、映画とかも好きだし、、というなんとも安直な根拠から自分は文化的であると考えている。(ここでわざわざ国立大学と言及したことにむっとした人はきっと私立出身でしょう。次は学歴論争についてぜひ語りたい。)ここで気をつけたいのは、文化的であることは上流階級であることとイコールではないということです。本当に生活に困窮する経済状況なら厳しくはなるけれど。

これを裏付けるものとして言いたいことは文化的な生活形式として最も重要なものは、ピアノだったり学歴だったりではもちろんないということ。大切なことは、牛乳を飲むときにわざわざ綺麗なグラスに入れて飲むこと、自分の思ったことを書き留めちゃおうと思い立つこと、レトルトのパスタソースを買うのではなく、卵と牛乳とベーコンを使って自分でカルボナーラを作れちゃうこと、こんなことだと思う。

牛乳の登場頻度がいささか多いような気もするけれど、なんとなく伝わっていたら嬉しい。周りのお金持ちの友人たちと自分を比べて落ち込むことも多いけど、こうした側面で文化的である自分、日々のささやかな幸せを楽しめている自分はなかなか嫌いじゃない。なんの予定もない日に、朝食パンをトースターで焼いて、半熟の目玉焼きを作って、カフェオレと一緒に食べた後、気分転換にピアノを弾き、 Netflixで洋画を観て。そんなことをしてる時の謎の優越感たるや。

本題に戻ると、こうした生活を送っていることは文章を書くときのアドバンテージになると言いたかったのだけど、よく考えてみるとこういう生活を自慢したかっただけかもしれない。お金はかからなくても、自分の好きなことをすること、それすなわち文化的である。こんな着地は雑だしいい子ぶりっ子すぎる。じゃあ朝からアニメ見てゲームしてカップラーメン啜ることが文化的なのか?まさか。今色々考えて思ったのは、私にとって文化的であることの定義は食と芸術を丁寧に楽しんでいるか、な気がしてきた。

着地点を見失ってしまった。ただ文化的な自分の紹介で終わってしまった。疲れたのでこれにておしまい。でもこういう自分の好きな生活についてぐだぐだ語ること、これも一つのエッセイ形式ですよね。これで私もエッセイストの卵になれたかな。

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