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ショートショート「靴下」
俺の白いスマートウォッチは、平日の十二時になると、振動でアラームを伝えるように設定してある。
だから、周りの同僚よりも一足先にランチに出ることができる。
俺は勢いよく立ち上がる。廊下を通ってエレベーターに乗り込む。食堂のある階のボタンを押す。
すると、誰かが勢いよく廊下を駆ける音がする。さっさと下の食堂に行きたかったが、一応、開くボタンを押す。
山下はエレベーターに必死の形相で駆け込むと、安堵したのか破顔して肩で息をしながら、俺に言う。
「おい梅本、黄色だったな。な?」
「そうかな? あれは黄土色というんじゃないか」
おれはカウントダウンしていく液晶パネルの階数を見ながら言った。
「お前の言った茶色より、俺の言った黄色の方が近い」
エレベータの扉が開く。
「負けを認めろ。サバの大盛で頼むぜ」
テーブルに着いたタイミングで、ようやく他の社員が数人、食堂に入ってきた。
俺の目の前には唐揚げ定食が、向かいに座る山下の目の前には、俺の七百円で買ったサバの味噌煮定食がある。
「今月は俺の勝ち越しだな」
「そうか? ごぶごぶじゃないか」
山下はサバの身を大きめに箸で割いて口に入れた。咀嚼しながら箸を皿に置き、ジャケットの胸元から、薄いバイブルサイズの手帳を取り出した。
「ほら、見ろよ」
差し出されたマンスリーのページには、それぞれの日付の下に、小さく「緑」「水色」「赤」「紫」「紺」「黄」と書いてある。
高階さんの靴下の色だ。
そして、山下の予想が的中した日には、色が○で囲われている。
「メモってるのか。キモいな」
「ああキモいさ。でもこんな賭け事してる時点で、お前もキモいのさ」
高階さんは総務部の四十代の女性だ。俺が入社八年目で、新卒でこの会社に入ったときは教育係の上司からあの人は三十代後半と聞いていたから、おそらく四十代で間違いない。
高階さんはおとなしくて、あまりしゃべらない。趣味が読書だと聞いたことがあるが、この職場で本を読む人がいないので、誰とも話が合わない。
そして、声がとても小さい。たまに同僚たちの会話にカットインするけど、声が小さく、使う言葉が独特でなので、確実に聞き返される。言い直しても、いまいち伝わっていなくて、その場にいる全員が曖昧に笑ってやり過ごす。
結婚はしていない。どちらかと言えば、きれいな方だ。色が白くて、細くて、うるさくない程度に目鼻立ちがハッキリしている。ただ、少し、潤いが足りないというか、言葉を選ばずに言えば、どこか枯れた雰囲気がある。
いい人だと思うし、事務作業は滞りもミスもなくて、こちらがミスをして恐る恐るそれを伝えても、周りにおおっぴらにならないように済ませてくれるのは、ありがたい。適度に仲良くしたい。でも、つかみどころがない。
会話の糸口をつかもうとして高階さんを観察していると、その足元に目がいった。うちの会社では、男性はスーツを着用し、女性は会社指定のベストとスカートを制服として着用する。それ以外は自由だ。
たとえば、靴下も。
高階さんは、毎日違う色のふくらはぎの半分くらいまでの長さの靴下を履いてくる。一度意識すると、ふし目がちにフロアを歩く高階さんが視界に入るたび、俺の目線は足元に向かうようになった。
似たような毎日がくり返されるこの職場にあって、高階さんの足元だけは自由にその存在を表現している。日ごと花弁の色を変える不思議な花のようだった。
俺がそのことを山下に話すと、ギャンブル好きなこいつは、「賭けよう」と提案してきた。
前日に、高階さんの靴下の色をそれぞれ予想する。お互いに同じ色は選ばないようにする。片方が当たり、片方が外した場合、外した方が昼食をおごる。
このひそかな賭け事が、単調なこの仕事に伴う、ささやかな楽しみになった。
出社してすぐ、高階さんの足元を見るのが癖になった。
「それはそうと梅本、明日は飲み会だな」
山下は言った。明日の十九時から、全社員参加の飲み会がある。
「忘れてた。奥さんに言っとかないと」
メッセージを送ると、一分ほどで、「私も友達と外食」と返事がきた。
「聞いてみろよ、高階さんに靴下のこと。俺は用事で欠席だから」
「なんか聞くのは違う気がするんだよな」
窓の外には、刷毛で引いたような雲が浮かんでいた。のっぺりとした昼休みが終わり、眠くてもできる仕事をこなして退社した。
洗顔を終えたわたしは、机の中央にある薄い革張りの表紙を手にとり、ページを開く。
そこには年間にわたり、「何月何日に、何色のものを身につけなければいけないか」が記されている。
わたしは、「今日の色」を確認して、引き出しの二段目をスライドさせる。そこには、色見本帳としても使えそうな、色彩の連なりが広がる。一番左の列には、限界まで煮込んだような重いワインレッドから、中間に原色を経て、どこまでも控えめな薄桃色まで、赤の階調が並んでいる。奥から手前にいくにつれて、色は薄くなるよう並べられている。その一つ一つは、丁寧に折り畳まれた靴下の先端である。同じ調子で、黄色、青、緑、紫、オレンジ、茶色、黒の列が並んでいる。
わたしは、右端の黒の列の手前から三つ目の灰色の靴下を取り出す。こだわりのない人なら単に「グレー」と呼ぶであろうこの色は、教典では〈薄梅鼠(うすうめねず)〉と表記されている。
つま先から靴下を通し、繊維が皮膚をなぞっていくとき、自分がバンパーレーンに沿って転がるボーリングの玉になったように感じる。まっすぐ、落ちない安心感。
わたしが三年前から入信している『整色教』の戒律は、こうだ。
「決まった日に、決まった色のものを身につける」。
整色教の信者たちは、みな「性」に関して何かしらの失敗を経験している。
わたしと同日に入信した妻子持ちの会社役員の男は、受付嬢と不倫をしていて、相手と関係を切れたはいいものの、いっときの性欲の誤作動が、これまで築き上げてきたものをいとも簡単に瓦解させてしまう危険性におびえていた。
そこで、この宗教に入信し、戒律を忠実に守ることで自らの性欲を制御していた。会社役員の彼の場合は、定められた色のネクタイをつけるようにしていた。
要は、仕事のときに人目につく部分に、決まった色のものを身につければいい。そうすれば、救済が与えられる。性で踏み外さない。
あるサラリーマンの場合はタイピンだったし、わたしの場合は靴下であった。マスカラの色を日々変えるキャバ嬢もいた。ショップ店員はストールの色を変えた。とある野球選手はリストバンドの色を変えた。SMクラブの女王様はムチにつけるストラップの色を変えた。なにを身につけるかは、入信時に選べる。信者は、細分化された色の小物のセットを、五万円のお布施と引き換えに受け取る。一年経てば新しいものをお布施と交換する。
わたしの抱えていた問題は、旺盛な性欲が妻子のある男性と肉体関係を持つハードルを軽々と超えてしまうことだった。
また、色狂いの父親が家庭をめちゃくちゃにしていた幼少期に、ずっとトラウマを抱えていた。性とは放っておけば乱れるものであり、正さなければならない。
心の奥に腰を据えていた恐れを、整色教は救済してくれた。教典の冒頭に書かれているとおり、カレンダーに記された大安、吉日、仏滅などのように、一日一日には意味があり、それを表す色がある。戒律を通してそれを意識することで、正しい性生活を送ることができる。
冷蔵庫から皮むきりんごと飲むヨーグルトを取り出して教典の横に置く。りんごの咀嚼音を聞きながら、そういえば今日は飲み会だったな、と思う。
くるぶし丈のデニムに白いブラウスを着て、トートバッグを肩にかけ、タッセルローファーを履いて外に出た。季節の変わり目、というには気候は安定してきていて、公園の葉桜を横目に見ながら歩く今は、確実に春なんだろうと思う。
仕事がたてこみ、飲み会にはかなり遅れて参加することになった。居酒屋では、酔いつぶれる者と、下戸で静かに飲む者がわかりやすく半々だった。
酒に強い部長が振り分け、酔い潰れた社員とそうでない社員をペアにした。
飲んでいない者が酔いつぶれた人を家まで送っていくことになり、わたしは梅本という男性社員を家まで送っていくことになった。必然的に、わたしはペースを落として酒を飲むことを強いられた。今日はたくさん飲んで、「高階さん、意外と飲みますよね」とか言われたかったが、最初の一杯だけにしておいた。
わたしは梅本にたくさん水を飲ませた。おかげで、居酒屋を出るころには、ゆっくりとならまっすぐ歩けるレベルになっていた。
梅本の最寄駅は、わたしの最寄駅の一つ手前だった。閑静な夜の住宅街で、年が十個以上離れた男と歩いている状況を意識するほどに、落ち着かなくなった。
「家、もうすぐです。すいません」
角を曲がると、梅本は、あそこです、と一棟のマンションを指さした。
すると、突然雨が降り出した。
最初は気持ち程度の雨粒だったのが、一分と経たないうちに、狂ったように私たちをたたきつけた。マンションのエントランスに駆け込み、外の雨足を眺めていると、そこに白いつぶてのようなものが混じりだした。
梅本はスマートウォッチの表面の水滴を拭いながら、
「雪、でもないですね」と言った。
わたしは、「雹だね」と言った。
雪の惑星の住人が、地球を全力で襲っている。そんな光景が、エントランスの自動ドアのガラス窓に縁取られていた。黒と白が乱暴に入り乱れていた。
傘を借りても、無傷で帰れそうにはなかった。
「やむまで、うちでお茶でも飲んでいきますか」と梅本は言った。
わたしは同意した。
上がっていくエレベーターのなかでうつむくわたしの視界には、雨でぐっしょりと濡れて、もはや黒にしか見えない靴下があった。