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ショートショート「愛のすみか」

 山辺由香里は山辺悟と手をつないで家路をたどっている。
 薄暮の家並みを通ると、カレーや魚が焼ける匂いが香ってくる。
 式は、無事終わった。
 当初は形ばかりの式には実質的な意味がないと否定していた悟だったが、いざ式を終えると、「出てよかった」と熱のある目で由香里に語った。ちゃんとがんばらなきゃ、と思えたらしい。
 悟は奥手で慎重な性格だから、これまで外で手をつなぐことなどしなかった。由香里が甘えても、毅然とした態度を取り続けた。だが、この日ばかりは、悟から由香里の手を取った。由香里は悟の手のごわつきに男らしさを感じた。
 玄関前に着くと、悟はスラックスのポケットから鍵を取り出して扉の鍵穴に差し込もうとする。いつもと同じ動作をしているのに、やったことのないスポーツをはじめてやるようなぎこちなさになる。つい手元が狂って、鍵を落としてしまう。
 硬質な音が鳴る。夜の静寂は、ささいなその音をいたずらに拡張する。由香里はつないでいた手を一時的にほどいて悟の腕を優しくさする。悟は落ち着きを取り戻した様子で一息つくと、開錠する。紺色が深くなる夜空を背に二人が扉を閉めた後、玄関にはふたたび沈黙がおりる。
 モダンなグレーの表札には〈山辺〉の下に、小さく〈Yamabe〉。二人の愛のすみか。
 リビングに手荷物をおろすと、電気をつける前に、由香里から悟に口づけした。
 悟はこわごわとそれに応じる。そして、すこし遠慮気味に、由香里の背に手をまわす。由香里はそんな悟の態度に不満は感じていない。むしろ、これまでにない心のつながりを感じて満たされていた。愛情は爆発しそうだった。
 これまで、由香里は不安だった。悟が自分を愛していないのではないかと。由香里もどちらかといえばそうだが、それ以上に悟は奥手だった。好意が外側からは見えづらかった。しかし、もうわかった。彼は、ただ恥ずかしいのだ。悟が感情を容易に表に出すタイプではないのは、あの日、教室で初めて言葉を交わしたときからわかっていたことだ。
 これまで抑えてきた感情のぶんだけ、今、この瞬間の喜びは肥大した。悟への想いは現在から過去へと遡及し、出会いの日にまで至ってその道筋を特別な色で彩る。
 今日の式をきっかけに、悟は由香里への想いを開放しはじめている。夜が更けるにしたがい、悟の由香里への動きは積極性を増していく。
 すこしだけ開いた窓のすきまから風が入り込んで、夜空と同じ紺色のカーテンを揺らす。由香里の長い髪の毛先が風にあそぶ。二人は感情の門をすこしずつ解放していく。
 二人の周囲には、はじまりを感じさせる澄んだ空気が漂っている。数時間前の誓いの言葉が、遅効性の毒のように、すこしずつ、悟の感情に確証を与えているのだ。
 二人の境を溶かし合う営みは、夜を徹して続いた。
 
 由香里は、まだベッドで寝ている悟を残して、家を出た。普段の出勤時間より1時間ほど早く。冷たい空気が服の上から肌に染みる。いつもより頻回に腕時計を確認しながら、駅に向かう。時間の余裕はしっかり確保して出発できたにもかかわらず、そわそわとして落ち着かない。事前に考えていたとおり、忘れずに黒いキャップはかぶった。駅の構内に入るまで、絶えず周囲に視線を配っていた。
 由香里は、職場最寄り駅の二つ手前の駅を降りる。なおも、時計を気にしている。黒いキャップで隠した寝癖を直し、メイクと着替えをする時間はあるだろうか。
 公園のなかを突っ切り、路地を小走りで通り抜け、玄関までたどり着く。
 木製の表札には、〈山辺〉。その下に、小さく〈Yamanobe〉。二人の愛のすみか。
 彼女はポケットから鍵を取り出して開錠し、中に入る。山辺拓哉がいびきをかいて寝ている寝室の前の廊下をすり足で通り抜け、洗面所で帽子を脱ぎ、髪の毛をセットし、薄いメイクを済ませる。服を黒のパンツスーツに着替え、薬指に拓哉とそろいの指輪をはめ、職場に向かう。
 冬休み明けの日岡高等学校の教室で、教壇に立つと、二年前に山辺悟が座っていた席に自然と目線が向かう。そこには、今は天然パーマの物静かな女子生徒が座っている。くしゃみをしたはずみに、ふと黒板の端が目に触れた。
「今日の日直は誰? 日付書き忘れてるよ」
 男子生徒の一人が小走りで前に出て、チョークを握る。月の欄に「1」と書いて、手が止まる。
「今日、何日だっけ?」
「1月9日でしょ」
 由香里は即答した。男子生徒は太く直線的な文字を黒板に書きつける。書くたびにチョークから少量の粉がさらさらと落ちる。予想通り、曜日の欄に「月」と書こうとしたので、由香里は、
「火曜日でしょ」
 と間髪入れずに注意する。
「昨日は成人の日で祝日だったでしょ。みんなも、まだ正月ボケしてるんじゃない? 受験近いんだから気引き締めていかないとダメよ」

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