スリープ・ダイバーSleep Diver
眠ることで他人の意識に入り込み、心を読んだり操ったりできる
テレパシー能力を持つ青年、江戸川啓志と
あらゆる武道を使いこなす女の子、尾輪凛子の
二人組が、活躍する短編ストーリーです。
※無料公開作品です。
※本作品の全部、または一部を無断で転載・複製・配布・送信することを禁止します。
※本作品の画像や内容を無断で改変、改ざんなどの行為を禁止します。
1 眠る能力者
小春日和の暖かな午後、その青年は、
東京都渋谷区立大山公園のベンチで、のけぞって眠り込んでいた。
彼は、いつでもどこでも眠れる男だった。
青年の名は、江戸川啓志、23歳。
どこにでもいるような平凡な外見に、中肉中背。
薄汚れたグレーのトレナーに、カーゴパンツ、
擦り切れたナイキのスニーカーを履いている。
彼の隣には、一人の小柄な女の子が座っていた。
ショートカットのボーイッシュの髪型は、その整った
顔立ちに、よく似合っていた。
白いTシャツの上からスタジャンを羽織り、
ダメージジーンズ姿で脚を組んでいた。
彼女の名は。尾輪凛子。18歳という若さだ。
隣り合う二人の間には、奇妙な空気が存在していた。
一見、カップルのようにも見えるがそうでもない、
兄妹かと思えるような雰囲気でもないし、顔もまったく似ていない。
奇妙な男女二人組としか形容のしようがなかった。
『凛子、来たぞ』
彼女の頭の中―――意識に男の声がした。
その声は、となりで涎を垂らして眠っている、
江戸川啓志のものだった。
凛子のぱっちりと開いた両目が、かすかに細まった。
「この間みたいに、あたしの心の中探らないでよね。
またやったら、グーパンでボコボコしてやるから」
彼女は実は、空手2段 柔道4段 合気道3段
剣道5段の猛者なのだ。
普段はある空手道場で師範代を勤めている。
『そんなこともう、やんないって。それよりターゲットが近づいてる。
西側の道路だ。ロン毛にGジャン、黒革のパンツを履いてる』
啓志の声が、また凛子の頭に響いた。
江戸川啓志はテレパス―――テレパシー能力を
持つ、いわば超能力者だった。
それは他人の意識に入り込み、心を読んだり操ったりすることができる
異能力のことだ。
他人の意識という海原に、スキューバダイバーがダイビングするように、人の意識に潜り込む。
ただ、その能力を発揮するには、『眠る』ことが必要だった。
つまり、彼は眠っている間だけ、テレパスとしての能力を使えるのだ。
彼は自分の意識を飛ばして、周囲の人々の心の中を
覗きまわっていた。そして、見つけたのだ。
啓志にターゲットと呼ばれたロン毛の若い男は、
『出し子』とか『ハト』と呼ばれる、振り込め詐欺集団の
末端にあたる人間だ。
被害者を騙し、振り込ませた金を、コンビニなどにある
ATMから現金を引き出す役目だ。
そのロン毛の男は現金を引き出したばかりで、
それを銅元へと持っていく途中のようだった。
凛子はベンチから立ち上がると、西側の道路へ向かって行った。
俯き加減の、ロン毛の男の前に立ちふさがった。
男が凛子を避けようとして、右に動いた。
凛子は左に移動して道を閉ざした。
次に男は左に動く。またしても凛子は動いて道をふさいだ。
そこで初めて、男は顔を上げた。面長の青白い顔。
その細い目で凛子を睨んだ。
「てめえ、邪魔なんだよ。どけよ」
言葉は威嚇的だが、男が明らかに怯えているのを
凛子は感じ取った。
「犯罪者に道を譲る気はないわ」
凛子は毅然として言った。
男の細い目は大きく見開かれた。なぜ、自分のことが
この女にバレているのか?
男の視線は慌てたように、辺りを見渡した。
まさかサツ?それにしては若すぎる。どう見ても高校生くらいだ。
見たところ一人だけのようだし・・・。どういうことだ?
公園のベンチで眠っている江戸川啓志の寝顔は、
ロン毛の男の動揺ぶりを読んで、にやけたように笑んでいた。
「どきやがれ!くそアマ!」
男は貧弱な腕を振り上げた。拳を凛子に向けて突き出した。
彼女は、そのお粗末なパンチを、難なくかわしつつ、
啓志に向かって、心の中で言った。
啓志、後は任せたわよ―――。
『アイアイサー』
啓志の、のんびりと間延びした声が、凛子の意識に届く。
次の瞬間、男の動きが止まった。両手をだらりと下げて、
茫然と立っている。両目の焦点が合っていない。
啓志が、ロン毛の男の意識を乗っ取ったのだ。
凛子は男に近づくと、Gジャンのポケットから、
丸められて輪ゴムで留められた札束を抜き取った。
それから何事も無かったような平然とした表情のまま、
公園へと歩いて行った。
啓志が、だらしなく眠っているベンチに向かいながら、
凛子は心の中で、彼に問いかけた。
被害者の口座番号とアジトの場所はわかった?
『もうバッチリだよ。それに奴の記憶から、凛子と
会ったこともデリートした』
OK。完璧。
凛子は啓志へ向けて、心の中で答えた。
肩越しに見ると、ロン毛の男は、とぼとぼと歩いていた。
ふところが、からになっていることも知らずに。
凛子は、いたずらっぽく微笑んだ。
2 ヤドカリとイソギンチャク
公園に戻った凛子は、まだ眠っている啓志の頬を
ペチペチと叩いて、起こした。
啓志は眩しそうに、目を見開いた。
「さあ、行くわよ」
啓志はふらつきながら、立ち上がった。
他人の意識にダイビングした後は、いつもひどく疲れる。
本当にスキューバー・ダイビングをしたみたいに。
人の意識は、海のように広くて深い。
まず、自我があり、その下に自意識がある。
そして、さらに深くに無意識があり、集合無意識、
最下層には普遍的無意識が、存在する。
啓志は、これまでに自意識までしか潜ったことがない。
深く潜れば潜るほど、意識の海に、呑みこまれてしまうのだ。
一端、呑みこまれてしまうと、元の自分の意識には戻れないことも、
啓志は知っていた。
凛子に腕を引っ張られ、啓志は公園を出た。
「あの男のアジトの場所もわかったんでしょ?
警察に通報しなくちゃ」
「その前に報酬をくれよ」
啓志は口を尖らせた。
江戸川啓志と尾輪凛子は、これまで数々の空き巣やスリ、置き引き、
そして今回のような振り込め詐欺などの事件の犯人を、
警察に知らせて奪われた現金を被害者の元へと返すという、
人助けをしてきた。
正義感の強い凛子は、無償でやっていたが、
啓志は無償では、やりたくないと言ってきたのだ。
啓志は条件を出してきた。手数料として、せめて
消費税分くらいは欲しいと。
なぜ、消費税分を主張したのかは、わからない。
凛子は仕方なく妥協した。今回取り戻した金は500万円。
彼女は頭の中で、すばやく計算した。
とすれば、今回の啓志への報酬は、5万円。
凛子は手にした札束から、5枚の1万円札を抜き出し、
不承不承という様子で、江戸川啓志へ手渡すと、
彼の顔はほころんだ。
啓志が報酬を求めたのには、理由がある。
彼は無職だったのだ。どんな仕事も長続きしないヘタレ男だった。
それで生活費のために、報酬を要求してきたのだ。
いつもデフォルトのような奴だな―――と凛子は思っている。
凛子はいつも不思議に思っていた。
こんな、だらしない男にどうしてテレパシー能力が、あるのか。
とはいえ、彼の超能力が無ければ、
悪党を捕まえられないことも、わかっていた。
啓志は啓志で、不思議に思っていた。
凛子は武道の達人で、とんでもなく強い。
それに空手の師範代をしていて、給料ももらっている。
しかも、実家は資本家で大金持ちだと聞いたことがある。世にいう、お嬢様といったところか。
それなのに、無報酬で人助けをやっている。
物好きな子だな―――と、啓志はいつも思っている。
しかし、啓志にとって彼女の行動力は、必要だった。
彼が他人の意識にダイビングする時は、眠らなくてはならないのだ。
その間は、何の行動もできない。凛子の力なくしては、
何もできないこともわかっていた。
いわば、ヤドカリとイソギンチャクのような関係だ。
いつだったか、その比喩を彼女に言ったことがある。
その時、凛子は怒りを露わにして、睨みつけてきた。
あたしが、イソギンチャクって言ってるの!?―――と。
眼光鋭く言ってきた彼女に怖れをなして、
啓志はすぐに閉口した。
だが、啓志は今でも思っている。
やっぱり、ヤドカリとイソギンチャクじゃんかよ・・・。
3 引っ越してきた住人
警察に通報するために、二人は公衆電話のある場所に向かった。
コンビニである。最近は、公衆電話自体が少なくなった。
だが、屋外にそれを設置しているコンビニもある。
なぜ、公衆電話から通報するのかというと、
匿名性を維持するためである。
携帯やスマホからでは、通話記録が残っていまい、
個人を特定されるからだ。
それでも、警察はいつも若い女性からの通報を、
不審に思っているかもしれない。
近場にあるコンビニを、見つけた。公衆電話もある。
凛子は受話器を持ち上げると、10円玉を入れた。
110番を押す。すぐに通話は繋がった。
彼女は振り込め詐欺をしている場所を、
傍にいる啓志から聞き出し、それを伝えた。
勿論、そこで振り込め詐欺をやっていることも。
それだけを言うと、凛子は電話を切った。
凛子と啓志は、振り込め詐欺のアジトへ向かった。
本当に、警察が彼らを検挙するのか、確認したかったからだ。
そこは通報したコンビニから徒歩で、10分ほどの所にある
雑居ビルの3階にあった。
到着すると、すでに数台のパトカーの姿があった。
周りには何事かと集まった、多くの野次馬で、ごった返していた。
その中に紛れて、凛子と啓志は人々の肩越しに、その先へ
視線を向けた。
見ると、数人の男たちが、複数の警察官に連行されて
いるところだった。
凛子は安心したように小さく頷くと、言った。
「あたしこれから道場へ行かないといけないから・・・
じゃあ、またね」
彼女は、くるっと啓志に背を向けると、その場を立ち去った。
後に残された啓志は、これからどうしようかと考えた。
今、手元には5万円ある。このお金を何倍も増やせないかと思った。
彼は、お金に困っていた。家賃も滞納し、電気、ガス、水道も
止められている。トイレがしたくなった時には、近くのコンビニまで
行っている有様だ。
なんとか、この5万円を増やす方法はないか―――?
啓志は、指をパチンと鳴らした。
パチンコだ。パチンコでフィーバーすればいいのだ。
江戸川啓志は、意気揚々と行きつけの、パチンコ屋へ向かった。
数時間後、閉店までねばったが、手にした5万円の
全額をスッってしまった。
彼は肩を落として、とぼとぼと歩いて行った。
10年以上使っている、ビニールの財布―――
マジックテープで開閉する、開くときペリペリと音がする
あの財布だ―――を尻ポケットから取り出すと、
中にある小銭を数えた。25円しかなかった。
これだけでは、帰りのバス賃にもならない。
啓志は、自分の住んでいる、築40年以上の
ボロアパートへと、歩くことにした。3時間もかけて・・・。
真夜中過ぎに、やっと着いた。江戸川啓志の部屋は、
1階の角にあった。玄関を開けると、小さく狭い台所があり、
畳が剥き出しになった4畳半の部屋には、カビ臭い粗末な
布団と、食べ終わった夥しい数のカップラーメンの
容器に中に、古いノートパソコンが、あるだけだった。
電気も止められているから今は無用の長物になっている、
ノートパソコンを見つめて、真っ暗な部屋の中で、
彼は嘆息した。それからふてくされたように、
うす汚い布団に寝転んだ。
「オレ、何やってるんだろ・・・」
啓志は暗澹たる気持ちの中で、思わずつぶやいていた。
と、同時に腹が鳴った。今日は何も食べていない。
こんな空腹じゃ、眠れそうにないな・・・。
江戸川啓志は、そう思いながら目をつむった。
その5分後、彼は高いびきを、かいていた。
そう、江戸川啓志という男は、いろんな意味で、
いつでもどこでも眠れるのだった。
人が完全な睡眠、いわゆる熟睡する前には、
ほとんどの場合、半覚醒状態のレム睡眠と
呼ばれる過程を経る。
啓志のテレパス能力は、この時発揮される。
そして、啓志は布団に寝転んだまま、
面白半分に意識を飛ばした。
いつもは、このボロアパートの住人の心の中を
覗いたりして愉しんでいる。
101号室に一人暮らしの若い男性は、
片思いの女性がいるらしい。彼女の事で
頭がいっぱいのようだ。啓志には、その女性の容姿までもが
見えた。102号室に住む、年老いた女性は、年金を数えていた。
彼女は今では珍しくなった、陶器製の大きなブタの貯金箱に、
5000円玉貯金をしている。その合計はしめて8万5000円もあった。
意識を2階に飛ばしてみる。201号室には中年の作業員が
住んでいるが、まだ帰宅していないようだ。
彼が大酒飲みだということは知っていたので、たぶん、
どこかの居酒屋で、いい気で呑んでいるのだろう。
202号と啓志の部屋の上にあたる203号室は
空室だった。
だったというのは、昨日までのことだ。
どうやら新しい住人が、203号室に越してきたようだ。
比較的若い男―――30歳前後―――で、
背が高い。啓志は彼の意識へダイビングした。
その男の目を通して、203号室の室内を見た。
啓志と同じようなノートパソコンが、見える。
だが、こちらは最新型だ。
それにパイプベッドにガラス天井のローテーブル。
そのテーブルの上には、スマートフォン。
あるのはそれだけだった。生活感が感じられない風景だった。
啓志は、興味を抱き、その男の意識をさらに探った。
この男は、いったい何者かという、何気ない興味からだ。
次の瞬間、その男の心の中に、驚愕するようなものを見つけた―――。
4 意識の中へ
その男は、誘拐犯だった。正確にいうと、誘拐犯の一人だ。
他の仲間の二人と共謀して、小さな女の子をさらって、
身代金を要求していたのだ。
啓志は、その男の、さらに意識の深いところへ、ダイビングした。
男の名は、江村三郎。誘拐の段取りをした進行役の
ような存在で、実行犯は別にいるようだ。
啓志は、二人の実行犯の名も探ろうとしたが、
彼らの名前までは、はっきりとはわからなった。
江村と実行犯たちの関係は薄く、最近知り合ったようだ。
もっと深い所まで潜ればわかるのだろうが、それは危険を伴った。
意識は、海のように深い。いくつもの階層になっていて、
実際の海が、深くなれば水温が低くなり、体力を消耗する
ことと同じだ。この場合は、精神力を使うことになる。
啓志は意識を、別の方向へ向けた。
江村は、実行犯との関係は希薄だったが、
誘拐した女の子については、よく知っているようだった。
拉致された女の子は、天野幸絵だとわかった。
年齢は8歳の、小学2年生だ。
彼女のイメージが、江村の中にあった。
色白で髪をおさげにした、可愛らしい女の子だ。
また別の方向へ、ダイビングしていく。
啓志はその意識にあった、身代金の額に、腰を抜かした。
身代金は、なんと5000億円だった―――。
そんな大金を用意できるような人物が、この日本に
何人いるというのか?
いた―――。江村の意識の中に、それは明瞭に浮かんだ。
彼らのターゲットは、最近、一部上場したばかりの、
とあるIT企業の社長だった。
彼の名前は天野哲郎。啓志もよく知っている、
ネット通販会社フリーネットベイス―――略してFNBのCEOだ。
20前半で起業して、30代半ばには、大手企業にまで上りつめた男で、
当時、IT時代の寵児としてマスコミに騒がれたことも、
啓志は覚えていた。
彼なら500億円を用意することも、不可能ではないだろう。
だが、一つ大きな問題がある。
それだけの大金を、どうやって奪うというのだろう?
持ち運ぶだけで、相当大変なものだ。
当然、天野も警察に通報しているはずだ。
警察を欺いて、そんな大金を運ぶことは、どうやっても不可能だろう。
トラックでも使う気なのだろうか?でも、そんなことをすれば
目立ってしょうがない。
どんな手口を考えてるんだ―――?
啓志は江村の意識の中を、泳いだ。
しばらくして、その手口が見つかった。
それがわかると、啓志は舌を巻いた。
おそらく誰も実行したことのない方法だった。
少なくとも国内では・・・。
5000億円を、手にする方法―――。
いや、正確にいうと、
彼ら犯人とって、500億円であって、500億円ではなかった
それは、実に巧妙に練られたものだった・・・。
5 一枚の葉を隠したければ、森に隠せ
5000億円の身代金、といっても犯人グループは、
全額を手にするつもりはなかった。
厳密にいうと、実際に入手する金額は、彼らにもわからないのだ。
その理由は、巧妙な手口によるものだった。
それは仮想通貨を利用したものだったのだ。
まず、FTBのCEOである天野哲郎に、
キングコインという仮想通貨を、500億円分買わせることだった。
この仮想通貨は、最近になって仮想通貨取引所で
取引されるようないなった、新しいものだ。
現在のキングコインの相場は、1コイン約30円でしかない。
もし、天野哲郎が、500億円という大金を投入し、大量に買えば、
一気にキングコインの相場が、上昇するだろう。
キングコインの価値が、上がったところで売れば、
その差額で儲かることができる。
いわばこれはインサイダー取引の手法のひとつといえる。
おそらく、犯人たちは、大量のキングコインを所持
しているのだろう。
ただ、儲けるためには、相場が変動する瞬間を、
事前に知っておかなければばらない。
それも犯人グループに、抜かりは無かった。
キングコインを大量購入する日時―――
何日の何時、何分まで、天野に指定していたのだ。
だが―――と、江村の意識の中を、泳ぎながら
啓志は思った。
そのタイミングで、キングコインが大量に売りに出られれば、
警察も不審だと考えるだろう。
通常なら、その取引所に情報開示をさせて、
個人特定をすることも可能なはずだ。
しかし、そこには二つの難点が、あった。
一つは、その仮想通貨取引所のサーバーが、
海外であること。よほどの確証がなければ、
日本の警察の捜査に協力してくれるとは考えられない。
もう一つは、相場が変動したした時、キングコインを
売りに出すのが、犯人グループだけとは限らないことだ。
仮想通貨の相場を見ているユーザーは、
国内でも数十万人、いや数百万にも及ぶだろう。いや、それ以上か。
犯人が指定した日時に、高騰したキングコインを
売りに出す者は、他にも大勢いるだろうことは
容易に想像できる。
しかも、捜査対象は国内にとどまらない。
株式やFX、そして仮想通貨に投資し、儲けようとして、
パソコンの前に張り付いている者は、世界中にいるのだ。
この中から、犯人を特定することは、現実的に不可能と
いえるだろう。
一枚の葉を隠したければ、森に隠せ―――というわけだ。
犯人グループの巧妙さは、これだけではないことも、
啓志は感じていた。警察に特定されない、
さらなる手法がとられていることも、啓志には推定していた。
だが、その情報は江村の心の中に、おぼろげにしか存在していない。
具体的な、もう一つの巧妙なカラクリを
明確に掴むことができなかった。
それに、肝心の誘拐された女の子の居場所も
はっきりとはわからなかった。
江村の思考から得られた情報は、そこまでだった。
それに、これ以上、他人の意識の中にいるのは危険を
伴った。意識へのダイビングは、多大な精神力を消耗する。
啓志は急いで、江村の意識の海から浮上した。
彼は目を覚ました。軽い頭痛とめまいを感じつつ、
スマホに手を伸ばした。
電気やガスなどを止められていても、スマホの料金だけは
クレジットカードで支払っていた。
充電は残り10%。電気代を払えない啓志は、
スマホを充電するたびに、凛子の道場のコンセントを
借りている。
目覚めた啓志は、口角を捻じ曲げて笑みを浮かべた。
もし、この事件を解決することができれば、
500億円の消費税分―――つまり50億円が
手に入るかもしれない・・・。
それだけあれば、電気代やガス代、水道代、それに
滞納した家賃を払って、一生パチンコが、できる・・・。
などと考えている江戸川啓志は、どこまでも
矮小な男だった。
啓志は興奮を抑えきれずに、震える手で凛子の電話番号を、タップした。
凛子は、2回目のコールで、出た。
6 ダークウェヴ
「あのね、ウチの道場は、あんたのスマホのためにあるんじゃ
ないのよ」
空手着を着た凛子は、刺々しく言った。
他の道場生たちは稽古を終えて、帰ったようだった。
啓志と凛子は、彼女が師範代をつとめる、
空手道場の更衣室の古びたベンチに座っていた。
その部屋の隅にある、コンセントには、啓志のスマホが
繋がって、充電している。
「それより、とんでもない事件が、起きてんだよ」
啓志は、江村の意識にダイビングした時の、
一部始終を凛子に話した。
それを聞いた凛子の表情が、一変した。
「その江村って男以外の、二人のことはわからない?
誘拐された女の子の居場所も?」
凛子は、勢い込んで訊いてきた。
「ああ、犯人グループはお互い希薄な関係らしい。
たぶん、ネットか何で、知り合ったんだろう」
「それにしても500億円とはね。本当にそんな大金を
仮想通貨に投資したら、犯人たちは儲かるの?」
「キングコインって仮想通貨は、最近市場に出てきたやつで、
現時点では、1コイン100円程度で推移してる。
キングコインはまだ新しいから、マイニングも進んでいない。
市場に出ている量は、そんなに多くないんだ。
そこに500億円分もの買いがでたら、もしかして
現価格の100倍、いやそれ以上になると思う。
仮に犯人が、100万円分のキングコインを持っていたら、
その100倍以上、1億円以上もの大金になるってことだよ」
「話の腰を折って悪いけど、そのマイニングって何なの?」
「オレも詳しくはわからないけど、仮想通貨の新規発行のことで、
ハッシュ関数の計算作業のこと。ハッシュ関数の値がある
決められた値よりも小さくなったときに、
マイニング成功となり、報酬があたえられるんだ。
そのような代入値のことをナンスと呼んでて、これは
論理的に見つけることはできないから、あてずっぽうに
ナンスを入れるしかないんだ。そのためには、
高性能のコンピューターを24時間稼働させて、
計算させるしかない。よっぽど時間と金のある人じゃ
でいないようになってる」
凛子はきょとんとした顔をしていたが、
すぐに眉根を寄せて言った。
「何のことだか、わっぱりわからないわ」
啓志は初めて、凛子より優位に立てたことに、
ほくそ笑んでいた。
「まあ、簡単に例えると、貴金属の金と同じさ。
金が採掘されて、市場に出回れば、その価値は下がるけど、
それを大量に買い込む人がいれば、市場の金は少なくなって、
高値になるってことだよ」
「あんた、バカだって思ってたけど、よく知ってるわね
そういうこと」
なんだと?オレがバカだって前提で、話を聞いてたのか?
啓志は、少しムカついたが、
もうひとつの、犯人グループの巧妙な手口を、話すことにした。
「それに奴らは、2重3重の保険をかけてる。
それはダークウェヴだ」
「ダークウェヴ?」
凛子は、オーム返しに訊いた。
「インターネットは、いくつもの階層になっていて、
グーグルやファイヤフォックスなどのブラウザで
アクセスできるサーフェスウェヴ、その他に、
ディープウェヴっていうのがあるんだ。そこは
銀行や金融機関などの、取引などが記録されている
ネットワークで、セキュリティが厳重で、それに侵入するのは
ほぼ不可能。さらにその下には、ダークウェヴという
ネットワークがあって、アングラなサイトでひしめきあってる。
犯人たちは、そのダークウェヴに仮の仮想通貨取引所を造って、
一端、キングコインを移動して、
そこから複数の端末に送金、そしてそれらの端末から、
キングコインを売りさばくって方法を考えてる」
「よくわからないけど、それでうまくいくの?」
「ああ、ダークウェヴに存在するサーバーは、玉ねぎのような構造をしてて、
その層が変わるたびにIPアドレスが変化するんだ。
剥いても剥いても、皮がでてくるように、IP偽装をするには
持ってこいってことだよ。本当のIPが確定しなければ、個人を特定
することはできない。つまり犯人は捕まらないってこと。
実行犯の中に、そういうことに詳しい、コンピューターヲタクが
いるんだろうな」
「あんた、バカなのに、よく知ってるわね。そういうこと」
まーた、バカって言った。バカって―――!
啓志はさらにムカついたが、面と向かって
凛子に抗議しようとはしなかった。
腕力では、彼女には、とてもかなわない。投げ飛ばされるのがオチだ。
「オレも暇な時、いろんな人の心の中に入ってるんだ。
ある人は夕食のことを考えていて、ある人は次の給料日に
何を買おうかと思ってる。またある人は、不倫相手のことを
考えてたりする。その中で、インターネットに詳しい人だって
いるんだ。そこから情報を得たわけさ。いわば受け売りのようなものだ。
オレだって、そんなに詳しく知ってるわけじゃない。
インターネットは、いくつもの階層に分かれてるって言ったよね。
それは人の意識に似てるんだ。意識も階層になってる。
だから、オレにもある程度、わかったんだよ」
「とにかく、その幸絵ちゃんて女の子を救うことを考えなくちゃね。
アジトがわからない以上、その江村って奴を尾行して
つきとめないと・・・」
凛子は眉間に皺をよせて、つぶやいた。
「それで凛子、相談があるんだけど」
「何?」
凛子は、険しい視線を、啓志へ向けた。
「あの、ちょっとお金を貸してほしいんだ」
「この前の、5万円はどうしたの?」
啓志は、暑くもないのに額に浮かぶ汗を拭いながら、言った。
「え?軍資金だよ。軍資金」
啓志は、パチンコでスッってしまったことなど、
口が裂けても、凛子に言えるはずはなかった・・・。
7 ゴミ屋敷
翌日、凛子は125ccのスクーターで、江戸川啓志の
アパートへと向かった。彼女は白いカットソーに、
ゆったりとしたカーキ色のカーゴパンツ姿で、
スクーターを止めると、小脇にフルフェイスヘルメットを
抱えて、歩きだした。
啓志との付き合いは、2年近くになるが、
彼のアパートに行くのは初めてだった。
いざ着いてみると、そのオンボロアパートに、眉をしかめた。
そのアパートの近くにある、自販機で缶コーヒーを二つ買って、
1階にある啓志の部屋へ向かった。たぶん、壊れているのだろう。
チャイムを鳴らそうとして、ボタンを押したが、まったく音がしない。
凛子は、仕方なくノックした、何度かそうしているうちに、
玄関のドアが、不快な軋んだ音を立てて開いた。
寝ぐせに髪を跳ね上げている啓志の顔が、覗いた。
薄汚れたブルーのTシャツに、履き古したジーンズ姿だった。
「早かったな。まあ、上がれよ」
啓志は頭を掻きながら、言った。
部屋に上がると、その汚さに凛子の口元は
への字を浮かべた。
乱雑に散らばった雑誌、溜まったゴミ袋、積み重なった
カップラーメンの器。それに干したことなど無いような、
敷きっぱなしの、薄っぺらい布団。異臭のたちこめる室内。
「しっかし。汚い部屋ね。掃除くらいしたらどうなの?」
そう言う彼女の意見も、意に介さずといった風情で、
啓志は、適当な場所に腰掛けた。
凛子も、比較的汚れていなさそうな、雑誌の束の上に
座った。
それに暗い。昼近くの時間とはいえ、北の方向に向いている窓からは
日差しはほとんど入ってこない。
「明りをつけてよ。これじゃ、お互いの顔も見えないわ」
嘆息しながら、凛子が言うと、啓志はまるで他人事のように言った。
「電気が止められてるんだ。仕方ないだろ」
凛子は、呆れ顔でうなだれた。
彼女が、缶コーヒーを渡すと、啓志はサンキューと言って、
リングプルを引いて、喉を鳴らしながら飲んだ。
「はい。これ」
凛子は、二つ折りのブルーの財布から、
1万円を取り出すと、啓志に渡した。
礼を言うと、1万円を手にした啓志は、破顔した。
これで、まともな飯が食える。
啓志は、この2日間、飲まず食わずだったのだ。
「あんがと。助かるよ」
「それで、あれから江村に動きはないの?」
と凛子。
「ああ、今のところは。でも昨夜、奴の意識にダイビングした。
江村は、今日の午後、犯人グループと落ち合うことになってる」
それを聞いて、凛子の表情に、真剣な色が戻ってきた。
「じゃあ、江村の意識に入って、その時間を探らないと・・・」
凛子が、言い終わらないうちに、啓志が手で彼女を制した。
「その必要はない。こんなボロアパートだ。
2階の人が、玄関を開けたら音でわかるよ」
「なるほどね」
凛子は、納得したように、頷いた。
ダイビングのために、精神力を温存しておいた方が
いいと、啓志は直感していた。
なにしろ、相手はどんな連中かも、わからないのだ。
さすがの凛子一人でも、どうにかなるとは限らない。
自分が、役に立てられるのは、テレパス能力しかない。
万が一の場合、凛子をサポートできるように
しておくに、越したことはない。
啓志が、そう考えていると、上の階のドアが開く音がした。
凛子も、それに気づいたようだ。
「さあ、行動開始よ」
凛子は、缶コーヒーの残りを、飲み干すと立ち上がった。
彼女はその缶コーヒーを、部屋の隅に放り投げた。
「おい、オレの部屋はゴミ捨て場かよ!?せめて燃えるゴミと
燃えないゴミに分けろよ」
「こんな汚部屋のどこに捨てても、同じじゃん」
凛子は、涼しい顔で言った。
8 尾行開始
江村が部屋を出て行き、階段を降りる音がすると、
啓志と凛子は、そっと玄関を開けた。
江村は、駐車場に停めてある、赤いセダンに乗りこんで、
発進したところだった。それを見た啓志たちは、慌てて靴を履くと、
表にある凛子の125ccスクーターへと、足早に向かった。
凛子はシートボックスから、予備のジェットヘルメットを
取り出すと啓志に渡し、自分もフルフェイスヘルメットを
被り、シートに座ってエンジンをかけた。
啓志はそれを受け取ると、頭にかぶって、
スクーターのタンデムシートにまたがった。
「変な所に触ったら、ボコボコにするからね」
ヘルメットから、凛子のくぐもった声が聞こえる。
「アイアイサー」
啓志は仕方なく、両サイドにあるグリップを握った。
その途端、凛子はアクセルを捻り、急発進した。
タンデムシートの啓志は、のけぞった。
尾行に気づかれないように、凛子は江村のセダンから
距離をとった。200メートル後方を走る。
赤いセダンは、南東へ向かっていた。
信号に何度かつかまり、次第に引き離されていく。
凛子は焦った。ここで見失えば、水泡に帰するかもしれない。
天野哲郎が犯人の命じるがままに、500億円分の
キングコインを買ってしまってからでは、遅い。
それに何よりも、誘拐された女の子の身が、危ない。
そうしているうちに、江村の車を完全に見失った。
やみくもにアクセルを吹かし、視線は赤いセダンを
探して泳いでいた。
そこで初めて凛子は気づいた。
タンデムシートから、啓志のいびきが、聞こえてきたのだ。
こいつ、こんな時に寝てんのか!
凛子は、腹立ち紛れに、急ブレーキをかけた。
路面に、転げ落ちる啓志。
凛子はスクーターのスタンドを立てると、
道路に横たわっている啓志へと、つかつかと歩み寄った。
「あんた、この非常時に何眠ってんの?
起きなさい、コラ。起きろってば!」
凛子は、啓志の被っているヘルメットの
フェイスカバーを押し上げると、啓志の鼻をつまんだ。
啓志は何度か苦しそうに喘ぐと、やっと目を開け、
寝言のように呟いた。彼の口からは、涎が垂れている。
凛子は、顔をしかめた。
「この先の・・・二つめの信号を・・・左・・・
それから500メートル・・・真っ直ぐ行って・・・
右に・・・曲がって、20メートルの左側・・・にある
マンション・・・の304号室・・・」
凛子は、そこでやっと気づいた。
こいつ、江村の意識にダイビングしてたんだ―――。
「でかしたぞ!啓志」
凛子は、啓志を無理やり立たせると、
彼の体を軽々と持ち上げると、タンデムシートへと運び、しっかりと座らせる。
その時には、啓志もおぼろげながら目を覚ましていた。
「あんた、あたしに触ったら・・・」
凛子が、言いおわるより早く、
啓志が寝ぼけた声で、言った。
「アイアイ・・・サー」
9 アジトへ侵入
1LDKの部屋に、3人の男の姿が、あった。
「約束の時間まで、後10分だ」
20畳ほどもあるリビングルームの一角に、
3台のパソコンと、4台のモニターに囲まれて
チェアに座っている、植木貞家は言った。
植木は、おかっぱ頭に黒ぶちの眼鏡を
かけた、小柄な男だった。
黄ばんだトレーナーの上に、サルベットジーンズを履いている。
彼の視線は、モニターに釘づけにされていて、
右手にはマウスを握り、せわしなく貧乏ゆすりをしている。
そのたびに、3台のモニターが、小刻みに揺れている。
「本当に、天野は、キングコインを買うんだろうな?」
そう言ったのは、藤堂剛士。身長188センチもの大男だ。
体重は120キロ。体格も筋骨隆々で、強面の目は、
野獣のような凶暴さをたたえている。
リビングの壁に、寄りかかり、太い腕を組んでいる。
奥の8畳ほどの、フローリングの部屋には、
江村が胡坐をかいて、二人のやり取りを聞いていた。
彼と同じ部屋に、雪村絵里がいた。
彼女は手足はガムテープで縛られており、
猿轡をされていた。雪絵の傍には、彼女を拘束
したであろう、ガムテープのロールが、転がっている。
絵里が口をふさがれているのは、悲鳴を外部に
聞かれるのを防ぐためだけではなかった。
植木の集中力を、邪魔させないためでもあった。
植木は、悲鳴が特に苦手だった。特に女の子の悲鳴だ。
インターネットをしている時、彼にとってはすべての音が、
雑音としかきこえないのだ。
そのため、室内に音楽はテレビやラジオのようなものはなく、
CDラジカセさえない。一切の、音を立てないようにしていた。
「キングコインが、高騰して売りさばけば、
少なくとも3億円以上儲けることができる」
植木は、独り言のように呟いた。
そんな彼を、奇異な目で、藤堂は見ていた。
彼は内心、植木を気味悪がっていた。
それは自分と対照的で、最も嫌いなタイプの
人間だったからだ。江村は特別に何か特技を
持っているわけではなかったが、この犯罪に
呼びかけたのは、彼だっただけだ。
植木、藤堂、江村の3人が、知り合ったのは、
ダークウェヴのサイトだった。
そのサイトでは、犯罪者、またはこれから
犯罪を企てようとする者たちの、いわば
仲間を集めるためのサイトだった。
だから、3人の人間関係は希薄だった。
互いに、詳しい素性は知らないし、知ろうともしない。
藤堂と江村は誘拐役、仮想通貨に詳しい植木は、
その売買役といったところだった。
凛子と啓志は、誘拐犯たちのアジトである
マンションの3階にたどり着いた。
共通廊下を、足音を忍ばせて歩いて行く。
304号室の前に来ると、凛子がそっと
ドアノブに手を掛ける。ドアには、やはり鍵がかかっていた。
凛子はカーゴパンツの尻ポケットから、茶色で
厚地の布で、小さく丸められたものを出すと、
それを広げた。
中には、太さの違う、大小様々な金属の棒のような
ものが、収められていた。先端は曲がっていたり、
尖っていたりする。
それはピッキングツールだった。
鍵開けは、凛子の得意技の一つだ。
彼女は、その中の2本を取り出すと、細心の注意をはらいながら、
ドアの鍵穴へ、そっと入れた。
1分ほどして、小さな音を立てて、サムターンが回った。
凛子はゆっくりと、ドアノブを掴んで開いた。
玄関に踏み入れると、リビングルームとは、
ガラスの嵌めこまれた格子状の扉に仕切られていた。
その隙間から、凛子はリビングルームの中の様子を伺った。
中には、コンピューターとモニターに囲まれた男と、
キッチンのシンクに寄りかかった大男の姿が見えた。
江村の姿は無かった。おそらく別部屋にいるのだろうと推測した。
「行くわよ。啓志。あんたは女の子を助けて」
「はぁ?」
啓志は動揺を隠せなった。彼の返事も聞かず、
凛子は、扉を開けて突進した。
10 強敵
突然現れた、凛子と啓志の姿を見て、
その場の空気は、一瞬止まった。
「啓志、あんたは女の子を助けるのよ!」
凛子が叫ぶ。啓志は言われたまま、隣りの部屋に
うずくまっている、小さな女の子へと駆け寄った。
その女の子は、黄色い幼稚園の服を着ていた。
啓志は、彼女の猿轡を取ると、尋ねた。
「キミ、雪村絵里ちゃんだね?」
啓志の質問に、絵里は小さくコクリと、うなづいた。
「おにいちゃんは、だれ?」
啓志も犯人グループの一人だと思ったのかもしれない。
絵里の声は怯えて、震えていた。
「オレは、絵里ちゃんを助けに・・・」
啓志が、そこまで言うと、江村が彼の襟首を掴んで、
顎を殴りつけた。壁に叩きつけられ、啓志は気を失った。
「―――ったく、頼りないわね」
凛子は、呆れた声で言うと、江村の側頭部へ、
回し蹴りを叩きこんだ。江村はその一撃で、
腰が砕けるように、その場で倒れた。
「うるさい!うるさい!うるさい!気が散る!
その女をどうにかしろ!藤堂!あと3分なんだ!」
モニターの前で、叫ぶ植木から、呼び捨てにされて
怒りの形相を浮かべた藤堂だったが、目下のところ、
片づけなければならないのは、正体不明の若い女だ。
凄みを帯びた目を、凛子へ向けた。
彼女も身構える。
藤堂が、その巨大な拳で突きを放ってきた。
凛子は、それをかわすと、左回し蹴りを藤堂の
腹に叩きこんだ、だが、彼はニヤリと笑っただけで、
何のダメージも受けていないようだった。
再び彼女は、左右の蹴りをみまったが、
やはり、筋肉の鎧をまとった藤堂には通じなかった。
凛子が、これまでに闘ってきた相手の中でも
最強の部類に入る、強敵だ。
この男を倒すには、鍛えようのない頭部か、
金的しかない。しかし、それは藤堂も承知しているようで、
凛子の攻撃を完全に防御していた。
その時、植木の歓喜の混じった声が、響いた。
「よし、キングコインの買いが、入ったぞ!」
モニターに表示された取引所のレートが、
見る間に上昇していく。
「上がれ!!もっと上がれぇーッ!」
植木は喜々として、マウスを操作し始めた。
自分が持つ、キングコインを売りに出そうとしていた。
啓志は、植木の意識にダイビングした。
植木はマウスを握る自分の手が、いうことをきかないことに
気づいた。痙攣したように、思うように動かせないでいた。
「どういうことなんだ?手が・・・動かない」
彼の顔は歪み、焦りに額から汗が流れ落ちる。
そうしている間に、キングコインの価格は上昇していく。
「くっそおおおおお」
植木は歯噛みしながら、叫んだ。
同時に、啓志は植木の精神的弱点も見抜いた。
11 逆転
啓志は、次に絵里の意識にダイビングした。
絵里ちゃん、聞こえる?さっきのお兄ちゃんだよ―――。
絵里の心の中に届いた声に驚くと、彼女の目は泳ぎ、
壁にもたれかかって、気を失っているように見える啓志の方を見た。
「うん、聞こえるよ」
絵里は、弱弱しく、か細い声で答えた。
お兄ちゃんが、三つ数えるから、その合図で
おっきな声を上げて。できるかい?
「うん、できると思う」
「うおおおお!キングコインが150倍に上がった!
売るなら今だ・・・」
植木がマウスを操作する瞬間、
啓志は、絵里に呼びかけた。
3、2、1、絵里ちゃん、今だ!
雪村絵里は大きく息を吸い込むと、一気に声を上げた。
「きゃあああああーッ」
雪絵の悲鳴が、植木の集中力を大きく削いだ。
「うるせえええッ!」
植木は狂ったように、両手で自分の髪を掻きむしっていた。
啓志は。何とか立ち上がると、両足をふらつかせながらも
パソコンの電源であるコンセントにたどり着き、
それを引き抜いた。
パソコンの電源は切れ、モニターがすべて真っ暗になる。
「わあああああッ」
植木の絶叫が、部屋に鳴り響いた。
その間、凛子と藤堂の闘いは続いていた。
圧倒的に凛子の方が、押されていた。
彼女の攻撃は、筋肉の鎧で塞がれて、
藤堂にダメージを、ほとんど与えられなかった。
一方、凛子は藤堂の強烈な突きを、
かわしきれず、腕で防御しながらも、
吹き飛ばされた。彼女の両腕は紫色にはれ上がり、
息も入れ切れだ。
藤堂は余裕の笑みを、口元に刻んでいた。
その時、凛子の意識に、啓志の声が届いた。
凛子、珍しく苦戦してるようだな―――。
「何よ。勝手に、あたしの頭の中に、入らないでって
言ったでしょ!」
「何を、ぐだぐだ言ってる?」
藤堂は、奇妙なものを見るような視線を、凛子へ向けた。
再び、啓志の声が、聞こえる。
凛子、その大男の動きを一瞬止める。
その時が、チャンスだ―――。
藤堂の剛拳が、凛子を捉えた―――。
その瞬間、藤堂の動きが、止まった。突然、自分自身の肉体へ
コントロールが途絶えたことに、藤堂は混乱した。
口を半開きにして、両目をきょときょとと動かしている。
今だ!
啓志の声が、凛子の意識に飛び込んだ。
凛子は、藤堂の金的へ、思い切り前蹴りを叩きこんだ。
藤堂はたまらず、くの次にかがみこんだ。
凛子はひざ蹴りで、藤堂の顎を蹴り上げると同時に、
彼の頭頂部に、ひじ打ちを打ちおろした。
藤堂は金的を抑えながら、もんどり打った。
手足を痙攣させて、白眼を剥いている。
続いて、錯乱状態に陥っている植木の顔に、
一撃を喰らわせると、彼は、呆気なく気絶した。
凛子は肩で息をしながら、隣りの部屋で
壁にもたれかかっている、啓志へと向かい、
彼の頬を乱暴に叩いた。
啓志は、朦朧としながらも、ようやく立ち上がった。
凛子は、部屋の片隅で拘束されている、
絵里に駆け寄った。
12 能力者は紅く染まる
「天野絵里ちゃんね?」
凛子はそう言いながら、絵里の手足を縛っている
ガムテープを引きはがした。
凛子の問いに、少女はコクリとうなづいた。
「啓志、彼女をお願い。あたしは、念のため、あの3人を
縛っておくわ」
彼女は言うが早いか、傍らに転がっている
ガムテープのロールを手にすると、江村、植木、藤堂の
順に、後ろ手に手足をぐるぐる巻きにした。特に、藤堂は念入りに縛った。
それから凛子は、江村の内ポケットから、スマホを取り出すと、
絵里に訊いた。
「パパの電話番号は、知ってる?」
うん、と絵里は答えた。
啓志は、凛子が何をしようとしているのか、
咄嗟には、わからなかった。
凛子は少女の言うがままの。ダイヤルをタップした。
1コールで、相手は出た。
「どなたですか?」
男性の強張った声が、耳に届いた。おそらく天野哲郎自身だろう。
警察も聴いているはずだ。彼の声は、小刻みに震えていた。
「娘さんは無事です。犯人グループは拘束しています。
それにキングコインは、すぐに売ってください。そしたら
被害は最小限に抑えられると思います。
娘さんのいる、その場所は・・・」
凛子は、このマンションの住所を伝えた。
まだ何か訊きたそうにしている彼の電話を切ると、
啓志へ向かって、急いで伝えた。
「さあ、引き上げるわよ。すぐに警察が来るはずだから」
啓志が立ちあがると、絵里が彼の体に抱きついて来て、
そして言った。
「お兄ちゃんの声、聞こえたよ・・・」
それを聞いて、啓志の口元に、微笑が浮かんだ。
彼は絵里を抱えると、玄関へ向かった。
凛子も、彼の後を追った。
マンションの階下に降りると、啓志は絵里を降ろして言った。
「ここで、待ってるんだ。もうすぐパパに会えるからね」
うなづいた絵里の顔に、やっと笑みが戻った。
「啓志、何ぐずぐずしてんの?早く行くわよ」
凛子は、スクーターに跨り、ヘルメットを被りながら言った。
啓志もヘルメットを被って、タンデムシートに腰を下ろした。
彼女はアクセルを捻って、急発進した。
スクーターのバックミラーに映った天野絵里の姿が
小さくなっていく。
その時、けたたましいサイレンの音が、近づいてきた。
対向車線を走る、5台のパトカーとすれちがう。
そこで啓志は、思い出した。
「報酬の、50億円はどうなるんだ?」
「何か言った?」
凛子のくぐもった声が、問いかけてきた。
啓志は落胆した気持ちで、西に沈む夕陽へと
目を向けた。
紅色に染まった空は、今までに見たことも無い
綺麗な光景だった。
ふと、助けた少女の声が、啓志の脳裏をよぎった。
お兄ちゃんの声、聞こえたよ―――。
「ま、いっか・・・」
啓志の顔には、微笑が浮かんでいた。
スリープ・ダイバー END
あとがき
拙作『スリープ・ダイバー』を読了していただき、ありがとうございます。
この作品は2019年にとある投稿サイトに掲載したものを、一部書き下ろしたものです。ライトに読めるドラマを意識して書きました。拙文にて恐縮していますが、楽しんでいただけたら幸いです。
金土豊