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特権無きノブレス・オブリージュを求める限り煉獄杏寿郎は生まれない

最近、息子ふたりが仮面ライダーに加えて鬼滅の刃を見るようになった。
それに伴い、僕も単行本全巻を読み映画も見に行ったので、鬼滅の刃について何かを語る資格はあるはずだ。元々は、小山晃弘さんの記事を見て触発された。

僕的にはこれ以上付け加えることのない記事なのだが、僕自身が思うところも多々あったので、まずは映画の記事を、次に鬼殺隊からすっぽり欠けている「男らしさ」について書きたい。

では、映画の話から始めよう。ネタバレはするのでそのつもりで読んでいただきたい。

煉獄の自己犠牲

僕は自己犠牲の物語が大好物なので、煉獄の最期には大変心を動かされるものがあった。「後に続く者を信ずる」という、伝統的な男の存在意義を存分に見せてくれた。しかし、煉獄杏寿郎は現代に生まれうるか。煉獄の想いを受け継ぎ戦い続ける炭治郎たちがいるから、煉獄の自己犠牲は最高の価値をもっているのだ。後に続く者がいなければ、あるいは後継ぎに想いを継ぐ意志がないのなら、その自己犠牲は単なる犬死にである。

身を投げ出す人間を絶対に支えるという覚悟が、他人の自己犠牲の利益を受ける者には求められる。煉獄の回想で、母親に「力ある者は私利私欲のためにその力を使ってはならない」とまさにノブレス・オブリージュそのものを説かれるのだが、正直ここでのめりこめなかった。ノブレス・オブリージュとは「高貴なる者が果たす義務」である。つまり特権階級がその絶大な権力・財力・武力を公の目的のために使えということだ。

煉獄家は大正時代に帯刀でき、父親も柱であるなど、高貴な血筋だったのだろう。なのでその血に恥じぬ行いをせよと母は煉獄に説いた。逆に言えば、我々下賤の者にそのような義務を果たす責任はない。その一方で、政治家や金持ちを特権階級とみなし、自己犠牲を当たり前のように求め、その成果にただ乗りしようとする者は多い。

上はヤフーニュースで見かけた漫画だが、最下段の「偉い人はこの映画を見ろ」というセリフからは、そんな「権力者」に自己犠牲を要求する臭いを感じる。平等精神、平等社会からノブレス・オブリージュは生まれない。普段から物心両面で特権を得ているからこそ、いざというときに身を切る余裕と矜恃が生まれるのだ。

特権が必要な自己犠牲など不純であるとする乞食精神が、世界からノブレス・オブリージュを消している。もはや現代日本に生きる我々は、映画で煉獄杏寿郎の自己犠牲を消費することしかできないのだ。

女も戦って死ね

我々下賤の者にノブレス・オブリージュはないのだが、ただ男に生まれたというだけで見ず知らずの相手に命を投げ出さないことで非難を受けることがある。

この事件で素手で鉈を振り回す犯人に立ち向かった男性が死亡したが、立ち向かったのはこの男性だけで、他に男の乗客はいたが彼以外は逃げた。それがずいぶんSNSで批判されていたことを覚えている。この死亡した男性は神奈川の名門校から東京大学工学部に進学し、一流企業に勤め、姉も東大で父親は日経新聞の元取締役らしく、彼はまさにノブレス・オブリージュを実行したのだ。しかし、彼に続く男はおらず、警察が来るまで犯人が取り押さえられることはなかった。

逃げた男の乗客たちは、我々と同じ下賤の者だったのだろう。そういう下賤の者を戦わせるには、戦うことによるインセンティブを普段の生活から受けていなくてはならない。つまり、男は強くあり、戦うことを称揚し、推進し、讃える社会でなければ、見ず知らずの他人のために命がけで戦う男が生まれることはない。

平時は「男女平等」「ジェンダーバイアス」とわめいて男が強くあるインセンティブを否定しておきながら、いざとなったときに自分で自分の身を守ることさえできず、あまつさえ男が逃げることを批判する。そんな状態で自己を犠牲にして戦う男が生まれるわけがない。男に戦わせたければ、普段から男に特権を与えよ。嫌なら女も戦って死ね。

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