
モヤモヤをネタにしたら不器用な若者を応援したいと語っていた
こんばんは!学生の時一人で吉野家入ってカウンターでうなだれてる男の人達の狭間で牛丼食べたらもう怖いものはないと悟った保健師summerkiwiです。
今回は前回宣言した通り、最近飲食店で感じたモヤモヤについて書きます。
この3連発の共通点は飲食店で起こった光景というだけ。書きながら思いましたが、ネガティブな思いを言語化するのは本当に難しいですね。事実と意見と解釈と感情が入り混じり、まとめることは非常に困難。これも言語化の練習だから、公開します。
モヤモヤを書こうと思った理由は以下の最初の方に書きました。
牛丼チェーン店でテイクアウト注文時
近いからという理由ですき家へ行くことが多いけどたまには吉野家が食べたいなと思い、ある夜車を走らせた。駐車場で夫は車内待機し、私一人で店内へ。私と夫の二人分を注文したい。一つは並で、もう一つは肉のみ大盛り。すき家なら中盛りなんだけど、吉野家のメニューを熟知していない私はよくわからず、レジ前でメニュー表見ながら困惑していた。
レジ店員は若い黒人女性。「牛丼並と、もう一個は肉だけ大盛りってどれでした?」って聞きながら助けを求める。「牛だく?」と言われ、そうそう牛だく!とメニューの写真を確認して注文終了。ちなみに牛だくという聞き慣れないメニューは、丼内にプラスされるのではなく増量分のみ別皿提供のエコではないスタイル。待つこと数分。出てきたのは、牛丼並と別皿に入った肉。いやいやいやいや、牛丼2食欲しいんだけど、これでは1食分じゃん。「あれ?並と肉だけ大盛りの2つを注文したつもりだったんだけど、、」と言っても相手は表情一つ変えず、何言ってるのこの人みたいな目で見ている。彼女は「もう一個?」と私に確認してから後ろを振り返り「並追加!」と厨房の人に伝えている。「なんかスミマセン」となんか謝ってる私。
注文と違うものが出てきた時に、私はちゃんと言ったのに相手が聞き間違えた、もしくは意味を取り違えた、店員なんだからしっかりしてくれよ!という思いと、客の言った通りにオーダー通しただけ、間違えたのはあなたがわかりにくい伝え方をするからでしょという思い。彼女がどう捉えてどう思っていたのかは確認していないので不明だが、外国人と遠回しな表現しがちな日本人の間では特に起こりやすいトラブルと感じた。
そして、この情報伝達ミスが起こった原因はどこにあったのかを確認しない前に、自分が悪かったのだろうと想像して空気感だけでとりあえず謝ってしまう自分に情けなくなった。白黒はっきりつけたがる夫のようなタイプの人ならもっと詰め寄って正誤を認めさせようとしたかもしれないが、私はそういう労力がめんどくさいと思ってしまうので、身を引くというある意味姑息な手段を取りがち。怒りの感情が滅多にわかない私だが、この時は久々にイライラが抑えきれず夫に話して、翌日英語講師にも話してようやくスッキリした。
和食レストランで遭遇した若いファミリーの振る舞い
某和食レストランで少し贅沢な夕食を楽しんでいると、一組のファミリーが私たちの前のボックス席に座った。若い男性、ニット帽の若い女性、小学低学年くらいの男の子、未就学児らしき女の子の4人構成。最初に引っかかったのは女性。「子供用の椅子をください」と店員に頼んだのだが、持ってきた店員に対して「どうも」くらいは言っていたが、わかりやすくお礼や感謝の言葉を述べなかったこと。「どうも」言う時も目線は子どもに向けられたままだった。ただ、この時点では一応お礼は言っているため、そこまで怪訝に思うほどではない。リアクション薄いなくらい。
4人の配置は私の目線の先に男性と男の子、その向かい(私から見えるのは後ろ姿)に女性と女の子。男性はぬぼーっとした雰囲気でのらりくらりしている。隣の男の子に話しかけたり一見父親やってる感あるが、どうもシャキッとさに欠けるところが好きではないと勝手にジャッジする私。
しばらくして、ガッシャーンとお皿が割れる音がして見ると、男性の手が滑ってお皿を落としてしまった様子。これは大変だ、どうするかなと思いそのまま見ていると驚いたことに、何もしない。何事もなかったのように4人は食事を続けている。テーブルを少し拭いているような仕草は見られるが、しばらくそのままの時間が過ぎていく。3分くらい経っただろうか、気付いたら店員さんが呼ばれている。ようやく謝るのかなと思ったら開口一番「お皿が〜割れちゃって〜〜」と男性。
自然現象?のはずがない。お皿は一人でに割れることはない。その前に必ず外的要因が存在する。手が滑ったとか手が当たっちゃったとかいろいろ。もちろんわざとではないだろうし故意かどうかはここでは問われてない。起きた事実を簡潔に説明し、損害を与えてしまった結果に対する詫びの姿勢が必要だと思う。
それがまるっきり抜け落ちていることに唖然とした。
店員さんはテキパキと掃除道具を持ってきて片付けている。その横で4人は他人事のように食事を続けている。謝ることも手伝うこともせず(手伝いは必要ないにしてもその姿勢を示すくらいはアリ)、男性は隣の男の子と笑い合ってる。女性の方もリアクションなく無関心に見える。この大人達の振る舞いを二人の幼い子どもは間近で見ている。この子らも今後同じような出来事に接したら同じような行動を取るのだろうと想像することが、一番残念な気持ちになった。
教育って、学校で先生から教えてもらうことなんてほんと一握りで、大半は身近な大人の振る舞いを見て学ぶのだろう。教科書とか黒板を見るよりダイレクトに伝わりやすい。普段の何気ない行動は本当に大事だ。
考察:起こることが当たり前になり過ぎていていちいち感謝の気持ちが湧いてこないのかなと考えた。子どもの用の椅子が出ていなければ持ってきてもらうのは当たり前、中身こぼしたりぶちまけたりお皿割れるのも日常茶飯事。それに加えて、自分は客だから店員に〇〇してもらうのは当たり前。
もちろん、小さな子を連れた人の中にも常に感謝の気持ちを持ち、気を遣いすぎたり恐縮しすぎている人もいることは知っている。子は親を選べない。自分はどうだろう。自分も当たり前になり過ぎて見過ごしてきた礼儀があったのではないか。
空いたお皿を下げ過ぎる店員さん
祝日の14時前。この時間までランチ営業しているお店は少ない中、オムライスチェーン店に通りかかり入ることにした。そこには二人の女性店員さんがいた。仮にマダムと若者と名付けよう。一人はマダムぽい出で立ちでいつでも笑顔と明るい声かけが丁寧で好感を持てる。頼まなくてもお水のおかわり注いで回り、隣の席が空いたらテーブルをつなげて広く使ってくださいねと言ってくれたりと、とても気が利くのだ。頼んだオムライスがイメージと違い、あぁ失敗したなと凹みながら食べていたので、マダムの接客でギリ良いイメージを保てているところだった。
一方、若い店員さんの方は無表情でボサッとしている。お水のおかわりを頼むと無言で対応してくれる。そして「空いたお皿をお下げしてもよろしいでしょうか」と事あるごとに一個、また一個と下げていく。しまいにはミニトマトを最後に食べる習慣のある私のミニトマト入りのお皿をも下げていく。食べ終わった合図としてテーブルの端へお皿を移動させていたならともかく、目の前に確保してあるミニトマト皿をもそんなに急いで下げんでもよかろうにと思ったが諦めた瞬間、「ごめんね、これ後で食べるんで」って夫がお皿を奪い返してくれたのは地味に嬉しかった。ここまでの時点で若者に対してはネガティブ感情しかない。
それでも気を取り直して食後のコーヒーを飲んでホッと一息。なんだかんだ食事ができてよかったと最後に口を拭こうとしたらおしぼりがなくなっていた。さっき一緒に下げられたのだ。なんなんだよマジで。もう二度と来ない。
お会計。伝票は見当たらないのでそのままレジへ、レジ担当は例の若者でうわぁ〜と思いながら向かう。「伝票はありますか?」と聞かれ、なかったけど席へと引き返しメニューの下も確認してから「ないです」と答えると、若者がくるっと後ろを向いてそこに伝票が残ったままになっていることに気づく。その瞬間、咄嗟にはにかんだクシャッとした笑顔がたまらなく可愛かったのだ。やっちまった的な照れ隠しのような素の表情。そして無事会計が終わり「ありがとうございました」と言いながら彼女がもう一度笑った。少し照れ混じりの最高の笑顔。やればできるじゃんとなぜか上から目線で思う。この連打笑顔が私のこれまでの嫌な気持ちを帳消しにした。そんくらいパワフル。
考察:マダムの接客はお客さんに気持ち良い時間を提供する一流のものだけど、営業スマイルと言えばそうかもしれない。バックヤードではめちゃ悪態ついてる可能性だってある。それと比べ若者の笑顔は心から出た笑顔に思えた。普段は無愛想であまり気も効かないけど、自分の心が動いた時にはとびきり素敵な笑顔が出るような純粋さがある。
そんなことを言ったって一般的にはマダムの方が好まれるだろう。でも、この若者はもしかしたらただ知らないだけではないか。「お皿下げすぎると相手を不快な気持ちにさせる可能性もある」ということを。私の夫のようにわざわざ言う人の方が少数だと思う。多くは相手に面と向かっては伝えず心の中では嫌な奴と決めつけたり、陰口言い合ったり。ある者にとっては当たり前のことでも、ある者にとっては指摘されなければ気付きさえしない。みんな一人一人違うから、そんなことは世の中いっぱいある。
教育されていない、知る機会に恵まれなかっただけで、知らぬ間に相手から低評価になってしまっている若者が実はたくさん存在してるように思えた。確かに厨房からすれば一度にドッとくるよりも小まめに洗い物がある方が仕事は片付いていく。ある意味求められていることに素直に向き合っている。まっすぐで不器用。
思えば30年前は、おせっかいおばちゃんとか近所のおっさんとかがその辺に当たり前にいて無遠慮にいろいろ言われたり、人と人との関わりがもっと濃かった。だんだんと媒介するのが人から機械に変わってきて、良いも悪いも含めて人対人の交流から学びを得る機会は減っている。例えば今飲食店行くと席にタッチパネルが用意されているお店も増えた。店員さんもなんだか機械的な口調で、人の代わりに機械が活躍しているのではなく、機械の代わりをこなしているような人もいる。
パッと見いい人そうに見えて厄介な人も多い中、根はいい人なのに良さを十分に発揮できず損してしまう人が埋もれていることに気づいた。
知ることで変われる可能性を秘めた若者を応援したいなと、ふと昭和生まれは思うのだった。
終わり
余談ですが、この前応募した仕事は書類審査通ったようで近日面接となりました。また報告します。
ありがとうございました。